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タニラダー開発者、谷真一郎氏が語る/前編…アジリティ向上のメリット

2016.11.11

インタビュー・文=池田敏明
写真=勝又義人

 多くの日本人プレーヤーが海外で活躍するようになった昨今、日本人の長所の一つとして頻繁に挙げられるのが「アジリティ(敏しょう性)」だ。小回りが利き、加速力に優れ、急激な方向転換もできる。それが日本人プレーヤーの特徴であり、香川真司や清武弘嗣、原口元気といった選手たちは、特にこの部分が高く評価され、海外のクラブで主力を務めるようになったとされている。

 しかし、J1リーグ、ヴァンフォーレ甲府でフィジカルコーチを務め、多くのJクラブがトレーニングに取り入れている『タニラダー』の開発者である谷真一郎氏は、「日本人はアジリティに優れてはいない」と語る。「アジリティに優れていれば、一対一の局面で負けるわけがない」と。

 だからこそ、谷氏は『タニラダー』を使ったラダートレーニングを普及させ、日本人のアジリティ能力を高めようとしている。「できないことができるようになる」ためには、どうすればいいのか。谷氏がこれまでにどのようなキャリアを歩み、その中でいかにして現在教えているメソッドに辿り着いたのか。本人に話を聞いた。

何の実績もない自分が日本代表に

――学生時代は筑波大学サッカー部で活躍されましたが、当時はどのような選手だったのでしょうか。

谷真一郎 徒競走で負けたことがないぐらい足が速かったので、元々はウイングでプレーすることが多かったのですが、大学時代はツートップの一角としてもプレーしました。ウイングの時はタッチライン際でボールを受けて、スピードに任せてそのまま突破してクロスを上げるプレーが多かったと思います。ただ、ツートップでは相手を背負いながらボールを受けるなど、今までにない役割をやることになり、そこは戸惑いました。

――大学在学中の1990年には日本代表にも招集されたということですが、大学でも1年次からレギュラーだったのでしょうか。

谷真一郎 大学にはそれなりの自信を持って入ったんですが、4年生に長谷川健太さん(現ガンバ大阪監督)、1学年上に井原正巳さん(現アビスパ福岡監督)や中山雅史さん(現アスルクラロ沼津)など、そうそうたるメンバーがいて、後頭部をいきなりトンカチで叩かれたような衝撃を受けました(笑)。それでも最初のセレクションマッチでスピードが目立ってゴールも決められて、Aチームで練習させてもらえたんですが、紅白戦にも出られない日々が続いて。これでは成長できないと思い、2年生の時に大学での選手登録を抹消し、ジョイフル本田というチーム(現ジョイフル本田つくばFC)に登録して茨城県リーグに出場していました。その時に小野剛さん(元JFA技術委員長)が同じチームにいたんですが、僕が3年生の時に小野さんが筑波大のコーチになって、いきなり僕をスタメンで使い始めてくれたんです。小野さんの下では世界トップクラスのアタッカーのコンビネーションやシュートシーンを映像で見て、グラウンドに出てそのイメージを具現化するトレーニングを繰り返しやりました。そうすると僕と中山さんのように全くレベルの違う人間同士でも同じイメージを共有でき、そこにコンビネーションが生まれるわけですよ。中山さんにアシストしてもらいながら、ゴールを決められるようになったんです。

――日本代表に招集されたのはその後ですね?

谷真一郎 総理大臣杯の準決勝で、ハーフウェーライン付近でボールを受けて相手2人をかわし、GKと一対一になってゴールを決めたんですが、そのプレーをデットマール・クラマーさんと当時の日本代表監督だった横山謙三さんがスタンドから見ていらっしゃいました。そこでクラマーさんが「あいつ面白いから代表に呼ぼう」となったそうです。クラマーさんにとっては、僕に何の肩書きもないことなんて関係ないんですよね。だから「あいつを呼べ」と。その大会が終わった後に井原さん、中山さんと一緒に日本B代表に呼ばれました。そしてB代表でのプレーを評価していただき、A代表にも呼ばれました。

――A代表では90年7月、ダイナスティカップの韓国戦に出場されました。

谷真一郎 20分間だけですけどね(笑)。後半残り20分というところで、僕と反町康治さん(現松本山雅監督)が同時投入されて、一緒に代表デビューしたんです。ビハインドだったので、ゴールを奪うための仕掛けのオプションとして入れてもらいました。デビュー戦でしたし、相手も韓国で強かったですし、冷静ではなかったかもしれないですね。「あの時ああすればよかったな」という局面は、今でも鮮明に覚えています。

――大学卒業後、91年に日立製作所(現柏レイソル)に進みます。

谷真一郎 当時は社員かプロかが選べる時代で、日立には大卒で7名入ったんですけど、みんな「とりあえず様子を見たい」と社員になったんです。でも、僕は中途半端になりたくなかったので、最初からプロ契約にしました。

――93年には元ブラジル代表FWのカレカが加入します。間近で見たカレカはどんなプレーヤーでしたか?

谷真一郎 僕がサッカーに対する向上心を失ったのは、彼の縦パス1本が原因です(笑)。ものすごい縦パスが来て「それをここに返せ」と言われたんです。返せない。カレカはナポリから加入したんですが、ナポリではディエゴ・マラドーナと一緒にやっていたんですよね。そういう世界観で来る縦パスを「ここに返してくれ」と言われて、脳が破壊されるような感覚になりました(笑)。でも、ああいったトップレベルのプレーを感じられたのはよかったですし、彼のおかげで早めの現役引退と指導者への転身を決断できました。上を目指そうと思っても、レベルが違い過ぎて行くべき場所が見えなくなりましたし、自分が上るより、次の世代の子たちが上るところに一緒にいたいと思うようになりましたね。

――元々、セカンドキャリアとして指導者を目指そうと考えていたのでしょうか。

谷真一郎 現役時代、いいトレーニングで成長した経験もあるし、「これは何の意味があるのだろう」というトレーニングもしてきました。当時、日立にはブラジル人のフィジカルコーチがいて、その存在自体は必要だと思っていたんですが、彼らはブラジルサッカーの歴史の中で培われた、ブラジル人向きのトレーニングを、日本人に対してもやっていたんですね。ブラジルのプロ選手はケガのリスクを減らすためにゲーム形式の練習を控え、技術とフィジカルのトレーニングを中心に行い、コンディションを整えてゲームに臨むのですが、果たして日本人はそれでいいのかなと。まだいろいろなレベルを上げていかなければいけないのに、コンディションだけを整えていてもうまくいかないだろうなと現役時代から思っていましたし、自分が指導する立場になったらこうするだろうな、ということも考えながら取り組んでいました。

――引退後は柏レイソルのアカデミーで指導者としてのキャリアをスタートされます。

谷真一郎 アカデミーでは3年間指導したんですが、最初は普通に技術や戦術を指導していました。でも、自分がフィジカル的に速くて強い選手だったので、その分野を詳しく勉強し直したいと思い、2年目、3年目は筑波大の大学院に通いながら指導しました。特にユースチームを見るようになってからは、どうしてもフィジカル的な要素のトレーニングが必要になり、自分の考えをトレーニングに落とし込んでいったら、チームが好成績を収めたんです。そのタイミングでトップチームのフィジカルコーチに空きが出たので、クラブから打診を受けてそのポストに就任しました。

タニラダー開発者、谷真一郎氏が語る/後編…アジリティ向上のメリット

ヴァンフォーレ甲府 フィジカルコーチ
谷真一郎

愛知県立西春高校から筑波大学に進学し、蹴球部に在籍。在学中に日本代表へ招集される。 同大学卒業後は日立製作所本社サッカー部(現柏レイソル)へ入団し、1995年までプレー。
引退後は柏レイソルの下部組織で指導を行いながら、筑波大学大学院にてコーチ学を専攻する。 その後、フィジカルコーチとして、柏レイソル、ベガルタ仙台、横浜FCに所属し、2010年よりヴァンフォーレ甲府のフィジカルコーチを務める。
『日本で唯一の代表キャップを持つフィジカルコーチ』である。

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