サポーターに呼び掛ける槙野智章 [写真]=足立雅史
文=元川悦子
「ハッピーバースデー・トゥー・ユー〜
ハッピーバースデー・トゥー・ユー〜
ハッピーバースデー・ディア・マキノ〜
ハッピバースデー・トゥー・ユー」
Jリーグ20周年記念試合と位置付けられた5月11日の浦和レッズ対鹿島アントラーズ戦。浦和が3-1で勝利した後、埼玉スタジアムのゴール裏から槙野智章の26回目の誕生日を祝う歌の大合唱が聞こえてきた。
「こんなに大勢の人たちに誕生日を祝ってもらったのは初めて。バースデーゴールの公約は果たせなくて残念でしたけど、不細工なプレーでもいいから貪欲に結果にこだわって勝ち点3取れたのはよかった。試合前に大宮が仙台に負けて無敗記録が止まったんで、監督から『今日から自分たちが記録を作ろう』と言われたし、そうなるように持っていこうと思って戦いました」と彼は語気を強めた。レフリーの誤審で興梠慎三の決勝点が入るという後味の悪い試合だったが、槙野の闘争心溢れる守備と爽やかな笑顔は、見る者にとって一服の清涼剤になったのは間違いないだろう。
日本サッカー御三家の1つ・広島で生まれた槙野は小学校1年の時、井口明神少年団に入って本格的にボールを蹴り始めた。スポーツ万能一家に育った3兄弟の末っ子はFWとして類稀な才能を発揮。小2の時から6年生チームの試合に出るほど地元では有名な存在だった。
中学時代は才能ある選手が揃うサンフレッチェ広島ジュニアユースへ。1年までは点取屋として期待されたが、チーム事情と声を出して指示できる彼の統率力を買われて2年からDFへ転向。コンバートを機に存在感を急速に高めていく。広島ユース時代は1年から試合に出場し、ユース代表にも選出。トップ昇格後も瞬く間に定位置確保と、極めて順調な10代を過ごす。20代になってからも、2007年にU-20W杯(カナダ)を経験して、2009年には日本代表初招集を受ける。2010年にはJリーグベストイレブンに名を連ねるなど、日本サッカー界を代表する選手へと確実に飛躍を遂げた。
その槙野が初めての大きな壁にぶつかったのが、2011年1月に挑戦したドイツだった。名門クラブ・1FCケルンの扉を叩いたものの、出場機会に恵まれない。182㎝という身長だと欧州ではセンターバックを務めるのは難しい。かといって、サイドバックにもスペシャリストはいる。槙野は極めて中途半端な扱いを受けた。「同じポジションを争う選手が次々と入ってきて本当に辛かった」と本人も述懐する。
サッカー選手として最も成長できる20代前半に試合から遠ざかるのは自分のためにならないと割り切った彼は、オファーを出してくれた浦和へ移籍。広島時代の恩師であるミハイロ・ペトロヴィッチ監督の下、新天地での再起を期した。
ただ、日本復帰は日本代表から遠ざかることにもなりかねなかった。その懸念通り、ザッケローニ監督は国内組になった槙野を代表から外す。彼は広島に住む両親に切ない本音を吐露したという。
「智章が『代表から外れてごめん』と申し訳なさそうに言うんです。『代表にいたいなら、あのまま欧州にいた方がよかったかもしれない。だけど俺は代表になるために海外に行くというのは好きじゃない。もう日の丸はつけられないかもしれないけど、浦和で本当に愛される選手になるから。浦和を優勝させるから。それで許してほしい』と話してきた時には、本当に涙が出そうでした」と母・令子さんは打ち明ける。
槙野はそこまでの強い思いを胸に秘め、浦和での戦いに挑んでいる。サービス精神旺盛な男ゆえ、ピッチ外でのパフォーマンスや言動はおちゃらけたようにも見えるが、彼ほど真摯な姿勢でサッカーを捉えている選手も珍しいほどだ。鹿島戦でもダヴィや野沢拓也に激しく寄せに行き、やられそうになった守備陣を力強く鼓舞し続ける。妥協を許さない厳しさが1つ1つのプレーから感じられた。
加えて、周囲へのきめ細やかな気配りも欠かさない。古巣初対決となった興梠の気負いを少しでも和らげようと、ともに広島からやってきた森脇良太や柏木陽介らを仲間に引き入れ、声をかけ続けた。背番号30の後半の輝きは彼らのおかげといっても過言ではない。
運にも助けられ、Jリーグ20年間で16冠を獲った常勝軍団・鹿島を下した26歳の誕生日は、槙野自身に「浦和愛」を改めて認識させてくれる特別な1日となった。首位・大宮アルディージャとの勝ち点差も6に縮まり、再びタイトルの可能性が広がってきた。広島で手にできなかったJリーグ頂点の座を何としても手にする……。20代後半に差し掛かった彼の挑戦はここからが本番だ。