とにかく行列に並ぶのが嫌いだ!
サッカーライターとして活動している自分にとって、たまに実施する潜入捜査はとてもいい気分転換になる。
「潜入捜査」といっても大したなもんじゃない。単に取材申請を提出するのではなく観戦チケットを購入し、取材者としてではなくいちサッカーファンとしてスタジアムでの時間を過ごすだけ。
これがいい。まずは仕事のプレッシャーがゼロであること。次に、思わぬ新発見があること。取材者と観戦者では時間の使い方や動き方、見るものや耳にするもの、口にするものや手にするものが大きく違うから、いつもなら気づかないことにハッとさせられたりする。例えば、アウェイゴール裏の隅っこのほうに席を確保すると、クラブのコアサポーターの特徴がはっきりと見えてきてとても面白い。
ただ、その“たまに”しかない機会で、いつも同じように困ることがある。トイレと飲食の行列だ。
僕たち取材者や関係者は恵まれている。トイレは混んでいても少し待つ程度で済むし、多くのスタジアムで飲みものは提供され、ルールを守れば持参した食べものをゆっくりと味わえる。だから、たまの潜入捜査でいつも思うのだ。もしこの行列がなくなったら、サッカー観戦はもっと楽しくなるのにと。
待ち時間ゼロ! 行列から解放される!?
4月5日のフライデーナイトは、自宅から近い等々力陸上競技場に向かった。川崎フロンターレvsセレッソ大阪の好カードは平日にもかかわらず2万人以上のファンが詰めかけ、メインスタンド裏のコンコースはキックオフ90分前から大混雑していた。せっかくの潜入捜査だから、ビールとつまみを手に入れたい。なのにものすごい混みようで、やはりいつもどおりテンションが下がる。
ところが、「もういいか」という気になって何となくアウェイゴール裏方向にコンコースを歩くと小さなブースを発見した。張り出されたポスターにはこう書いてある。
「座席から注文して待たずに受取!」
「待ち時間ゼロ!」
「行列から解放されよう!」
「ダイニー for 川崎フロンターレ」
最後の「ダイニー」とは、どうやらこのサービスの名称らしい。しばらく遠目に見ていると、訪れた川崎サポらしきご夫婦が飲みものと食べものをパパっと受け取り立ち去っていった。思わず「すみません!」と呼び止め、「これ何ですか?」と聞いてみる。
「クラブからメールで案内があったので、今日初めて利用してみたんですよ。まだ慣れていないからよくわからないけれど、並ばずに買えるというのはいいですよね。クラブとしてもきっと新しい試みなんだけど、ほら、私たちが積極的に利用しないとせっかくのチャレンジが台無しになっちゃうから(笑)」
さすがは常に時代の先頭を走る川崎フロンターレのサポーターさん。クラブのことを思って行動に移すなんて……。
「でもね、これは間違いなく便利ですよ。まだトライアルだと思うので、浸透するのを楽しみにしています」
その後も数組のサポーターが、並び時間ゼロで商品を持ち帰っていった。
仕掛け人は東大生起業家
ブースの近くにいた若いスタッフに声をかけてみた。受け取った「dinii inc.」の名刺には「代表取締役/CEO」の肩書きが添えられている。マジかよ。めっちゃ若いのに。
「『店舗向けモバイルオーダー・プラットフォーム』として立ち上げたばかりなのですが、3月から川崎フロンターレさんのホームゲームで導入させていただくことになり、今日が2度目のトライアルなんです」
専用アプリをダウンロードし、欲しい商品をカートに入れて注文する。クレジットカード番号を入力して注文を確定すると、受取時間の目安が表示される。説明を受けながら試してみると、このブースで5分後に受け取れるとのことだ。ブースに目を向けると伝票が発行され、商品を準備した販売員が伝票のQRコードを読み取った。するとこちらのスマホに「受取可能」の通知が届く。
話を聞いたのは山田真央さん。2018年6月に数人の仲間と株式会社diniiを立ち上げた起業家であり、実は現役東大生でもある。
「僕自身、子どもの頃から真剣にサッカーをやってきて、年間20試合ほどスタジアムで試合観戦するファンでした。サッカー観戦は楽しいし、スタグルを楽しむのも醍醐味ですよね。だけど、行列に並んで“待つこと”だけはどうしても受け入れられなくて……。それを解消して試合観戦に集中できたら、もっとサッカー観戦が楽しいだろうなと」
サービスそのものは、オフィス街で集中するランチタイムの混雑を解消する目的で開発された。しかしサッカー好きな自身のバックグラウンドからスタジアムに導入するアイデアに至り、複数クラブへの営業を試みる中で最初に「いいね!」と手を挙げてくれたのが川崎フロンターレだった。
サッカー界でブレイク必至!
ブースのすぐ近くで様子を見ていた川崎フロンターレ歴19年のスタッフで、このプロジェクトの舵取り役でもある谷田部然輝さんを捕まえた。いかにもフロンターレのスタッフらしく、身のこなしが軽妙だ。
「知人から『紹介したい人がいる』と連絡があって、すぐに山田さんとお会いしました。ダイニーの話を聞いて? もう、即決です。だって、サッカーも好きだし、すごくさわやかだし、しかも素晴らしいサービスだからやるしかないでしょって。もちろんトライアルとしてリスクのないところからスタートして、少しずつ拡大できればいい。2月の後半に初めて打ち合わせをして、次の週には最初のトライアルを始めていました(笑)」
クラブには新しいものを受け入れ、果敢にチャレンジしようとする伝統がある。そのことをサポーターも理解しているからこそ、さきほど声をかけた夫婦のようにクラブの試みをバックアップしようとする気概も感じる。この日のセレッソ大阪戦では年間パスを保有する一部のサポーター約1300人程度を対象としてサービスを展開したが、そのリアクションは上々だ。
現役東大生社長の山田さんが言う。
「フロンターレさんは過去2年のJリーグ王者で、最も地域に密着したクラブとしても知られていますよね。『お客さんをいかに楽しませるか』をとことん追求しているクラブなので、そういうクラブが最初にこのサービスを選んでくれたことがとても光栄です。このスタジアムに足を運ぶ皆さんが『いいね』と言ってくれたら、とても大きな自信になると思います」
この日は他クラブ関係者も、スマートスタジアム構想に着手する某企業も視察に訪れていた。すでに多くのクラブが「ダイニー」の導入に手を挙げており、ダイニーとサッカースタジアムのタッグは今後ものすごいスピードで拡大していく見込みだ。
――というわけで、“仕事ゼロ”で終わるはずの“潜入捜査”が思わぬ展開に流れ、結局仕事をするハメになってしまったのだがよしとしよう。サッカー界で「ダイニー」がブレイクすることは間違いない。並ぶストレスから解放されるなんて、最高じゃないか。
文=細江克弥
By 細江克弥