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ストイコビッチ「7年にわたって日本でプレーした私は異質と言えるかもしれない」

2013.03.26

Jリーグサッカーキング5月号 掲載]
世界的なビッグネームが次々に日本に新天地を求めた草創期、ストイコビッチもまた、生まれたばかりのJリーグに強い関心を抱き、大きな希望と決意を持って足を踏み入れた。あれから約20年、Jリーグの変化を見守ってきた彼の目に映る、日本サッカーの“現在地”とは。
ストイコビッチ
インタビュー・文=大島久之介 写真=鷹羽康博

Jリーグは今年で20周年を迎えます。この20年という期間をどのようにお考えですか?

ストイコビッチ 率直に言って、日本サッカー界はこの20年で飛躍的に発展したと感じています。リーグやクラブの運営体制、ピッチ上でのパフォーマンス、そしてファンの皆さんのサッカーに対する理解、こういった部分は目覚しい進歩を遂げてきたのではないでしょうか。20年前と比べると、すべてがポジティブな方向に向かっていると言える気がします。

名古屋グランパスに選手として1994年に加入しました。振り返って、当時の印象を教えてください。

ストイコビッチ 当時の私にとっては、すべてが新しいことでした。新しい国、新しい生活スタイル、新しい文化、新しいチャレンジでした。まだJリーグは開幕したばかりでしたが、うぶ声を上げたばかりの時期に「Jリーグの一員」としてプレーできたことには非常に大きな喜びを感じています。私はJリーグが発展するためにできる限りのことをしてきました。チームメートに対しても多くのことを教えてきたと自負しています。ですから、Jリーグと私は「親友」のような間柄と言っていいかもしれませんね(笑)。

当時のピッチ上におけるサッカーのレベルについてはどう感じていましたか?

ストイコビッチ 今とは全く異なるものですね。技術的にも戦術的にもミスが散見されました。もちろん、当時はまだプロリーグとしてスタートしたばかりでしたから仕方のないことです。しかし、それから数多くの経験を積み、クオリティーは年々向上しました。今では非常に成熟したサッカーが展開されていると思います。

ところで、なぜ名古屋グランパスでプレーすることを選んだのですか?

ストイコビッチ 名古屋グランパスが私を選んだからですよ(笑)。当時所属していたオリンピック・マルセイユは非常に難しい時期(編集部注/八百長問題によるタイトルの剥奪など)にありました。そんな時期に名古屋グランパスから届いたオファーは、私にとって非常に興味深いものでした。当時の名古屋ではイングランドの英雄、ガリー・リネカーがプレーしていましたし、鹿島アントラーズではジーコ、ジェフ市原(現千葉)ではピエール・リトバルスキーといった世界的なビッグネームがプレーしていました。そうした環境に自分の身を置くことは大きなチャレンジでもありましたが、非常に興味深く光栄なことと感じていました。

日本でプレーすることに対しての不安はありませんでしたか?

ストイコビッチ ただ一つ、気候については心配でしたね。私が初めて来日し、成田空港から外に出た時の湿度の高さには驚かされました。ただ、私はピッチの上で良いパフォーマンスを見せる自信がありました。もちろん、日本の生活に適応するまでに多少の時間を要することは覚悟していました。食事、文化などの生活スタイルがこれまでとは全く違うものになるわけですからね。とはいえ、それも時間が解決してくれること。結果的には数カ月間の“適応期間”を経て、良いプレーをすることができたと思います。

先ほど何人かの選手の名前が挙がりましたが、あなたも含めた世界的な名選手がJリーグに与えた影響は大きいのでは?

ストイコビッチ 各クラブの経営、強化に尽力した人たちは非常に賢い選択をしたと思いましたね。あなたの言うとおり、彼らの影響力は計り知れないものがありますし、世界のサッカーについての“正しい情報”を与えるという点において、非常にポジティブな影響をもたらしたと思います。また、プロモーションという点においても、彼らのように知名度のある選手たちが果たした役割は大きい。各クラブだけでなく、Jリーグ全体の宣伝に大きく貢献したのではないでしょうか。

その意見については、当時を知る誰もが納得するところだと思います。

ストイコビッチ 彼らのようなビッグネームをクラブ関係者やファンの皆さんが温かく受け入れたという点も忘れてはなりません。そのおかげで選手たちは良いパフォーマンスを見せることができたのですから。日本の人々の温かさ、ホスピタリティーについては当時多くの選手が驚き、同時に「ありがたい」と感じていました。もちろん、彼らの存在と同時に、カズ(三浦知良/現横浜FC)のような日本人のスター選手が多く存在したことも非常に重要な要素だったと思います。外国籍選手、日本人選手のどちらかに人気が偏ることがなく、非常に良いバランスが保たれていたのではないでしょうか。

当時、Jリーグでプレーした外国籍のビッグネーム同士で意見交換をするような機会はあったのでしょうか。

ストイコビッチ もちろんです。私たちはあらゆることを語り合いました。改善すべきところや向上の余地があることは皆に共通する意見でしたが、それでも彼らはJリーグの持つポテンシャルをポジティブに捉えていました。プレーする環境、生活環境という点においては誰もが満足していましたよ。まあ、多くの選手は2~3年でヨーロッパや南米に戻ってしまうことが多かったのですが(笑)。そういう意味では、7年もの期間にわたって日本でプレーした私は異質と言えるかもしれませんね。しかし、私にとっては非常に幸せな7年間でした。

ヨーロッパに戻ろうという考えはなかったのでしょうか。

ストイコビッチ 全くありませんでした。実は96年にアーセナルのアーセン・ベンゲル監督からオファーを受けました。しかし、私はそれを断りました。

もし差し支えなければ、その理由を教えてください。

ストイコビッチ 答えは簡単。日本でプレーするほうが幸せだと思ったからです。子供が学校に行き始めた時期でもありましたし、家族に負担を掛けたくないという思いもありましたからね。おそらく、当時アーセナルからのオファーを断ったのは世界で私だけではないでしょうか(笑)。

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