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中田浩二、日本が誇るマルチロールが世界で見てきたもの「僕はトルシエに”作られた”と思っている」

2012.08.21

Jリーグサッカーキング 2012.9月号掲載]
日本サッカーには「黄金世代」という言葉がある。1999年のワールドユース(現U-20W杯)で準優勝を果たした「79年組」を中心とした、あのメンバーだ。オリンピック、コンフェデレーションズカップ、そして2度のW杯出場。マルセイユ(フランス)、FCバーゼル(スイス)で得た経験。世界を知る男の言葉は、ひと味違う。鹿島で不動の背番号6を背負う中田浩二の矜持をどうか、噛み締めてほしい。

インタビュー・文=井上俊樹、写真=足立雅史

ワールドユースの時のナイジェリアは、快適だった

中田選手がワールドカップを実際に「自分が出る大会だ」と意識し始めたのは、いつ頃だったのでしょうか?

中田 1998年ですね。自分がプロになった年で、同年代の(小野)伸二(現清水エスパルス)が日本代表に入ったんです。そこまでは正直「夢」でしかなかったワールドカップで伸二が戦っているのを見て、「ここを目指すんだ」という気持ちになりましたね。でも、正直言うとあの時は「日本代表の一ファン」でした。当時はチームメートのアキさん(秋田豊)やナラさん(名良橋晃)、相馬(直樹)さんがW杯のピッチに立っていても、不思議と実感がなかった。プロになって2、3カ月で開催された大会だったからかな。ましてや自分はアントラーズのレギュラーにもなれていない時期だったし。正直、フランスW杯はファン……一人のサッカーファンとして応援していましたね。

それでは、中田選手が世界を実感したのは99年のワールドユース・ナイジェリア大会(現U-20W杯)ということになるでしょうか。

中田 そうですね。あの大会が終わってから、本当の意味で世界を意識し始めたと思います。それまでアジアの選手とはやっていましたけど、例えばアフリカの選手たちと試合をする機会はそんなになかったですし。実際に対戦してみて「あれ、何か違うな」と思ったんです。

何か、とは?

中田 よく分からないところから足が出てきたり、当たりのレベルが違ったりするんですよ。アジア……例えば韓国人選手とかには、たまに「強いな」と思ったりもするんですけど、またひと味違うというか……。一対一の駆け引きをしていて「よし、取れたな」と思ったら、そこからさらにギュンとスピードが上がったりね。そういうのが楽しかった。それで、もっともっと世界を見たいなって。

あの大会は金古聖司選手(現ミトラ・カクール/インドネシア)がケガをして、中田選手はコンバートされる形で本職ではないセンターバックに入りました。

中田 そうそう。でも意外にすんなりできましたよ。あれはね、フィリップ(・トルシエ)のやり方(ラインディフェンス)だからできたのかな。自分としては「中盤の延長」という感覚でプレーをしていた。もともと、人に付いてがっちりマークをするのはあまり好きじゃないから(笑)。フラット3もね、やればやるほどハマっていく手応えをつかみましたよ。あの大会をきっかけに。

当時はジーコさんが鹿島のテクニカル・ディレクターとして指導をされていました。ジーコさんはサッカーに対して非常に厳しい方ですが、トルシエには一種、エキセントリックな「厳しさ」もあったと思います。

中田 ははは。あの人ね、ある意味パフォーマンスでやってるだけだから。メディアの方がいると吠えるんですよ(笑)。練習が終わってホテルに帰ると、リラックスルームやメディカルルームで楽しそうに選手と話すし。ただジーコと比べると、ヨーロッパ的だなとは思う。よく言われる表現だけど、ヨーロッパは「型にはめる」。ブラジルや南米は「自由を尊重する」。その違いは、やっぱり感じましたね。でも、勘違いはしちゃいけない。日本人って「自由、自由」って言われると、かえって何もできなくなったりするでしょ? でも、ジーコの言う「自由」は、最低限のルールを守った上での「自由」だから。

準優勝というあの大会を改めて今振り返ると。

中田 ……すごいことですよね。

はい、すごいことです(笑)。

中田 楽しかったですよ、すべてが。サッカーも生活もね。それまで知らなかった世界をピッチの中でも外でも経験できた。大会中はヨーロッパのリーグが開催中で、20歳以下でもチームでレギュラーを取っている選手は大会に参加していなかったんですよ。イングランドなんて「3軍」って言われてて。でも、「デカイのがいるな!」ってびっくりして、後から考えてみたらクラウチ(現ストーク/イングランド)だった(笑)。よく「ナイジェリアの劣悪な環境で」って言われるじゃないですか。とんでもない。快適でしたよ。その直前のブルキナファソ合宿の環境のほうがすごかった。舗装されてない道なき道を行くんですから。バスが野生の動物と衝突したり、ホテルのエアコンはきかなかったり、タオルが雑巾同然だったり。出てくる水は茶色いしね(笑)。でも、そういうのが全部楽しかった。

自分はフィリップに「作られた」と思っている

中田選手にとって、2000年は一つの節目になったのではないでしょうか。2月5日のメキシコ戦で日本代表にデビューし、鹿島でもレギュラーとして3冠を獲得しました。

中田 そうですね。でも、すべてが無我夢中でしたよ。メキシコ戦は何もできなかったことくらいしか覚えていないし。周りの人がフォローしてくれて、自分は付いていくだけで必死でした。その結果として、3冠が付いてきただけです。クラブとしても3冠は初めてでしたし、いまだにそれを達成しているクラブはアントラーズ以外にない。それがどれだけ難しいかを経験できたことは、個人としてもクラブとしても大きかった。結果が出ないと自信は付かないから。

その後、代表のレギュラーにも定着して行きました。今、自信という言葉がありましたが、代表でやっていく自信が付き始めたのはいつ頃でしたか?

中田 01年のコンフェデレーションズカップで準優勝してからくらいですね。あの大会で、ようやくスタメンに定着したかなと思いますし。

大会自体も盛り上がりましたね。決勝を前に中田英寿選手がローマに帰るか、代表に残るかで大論争が起きたり……。

中田 あったねえ。でもさ、そう考えてみると、カレンダー的に組んじゃいけない大会だったよね(笑)

そして迎える日韓ワールドカップです。あの時、代表は静岡の袋井で約1カ月、完全に外部と遮断された生活を送っています。ドキュメンタリー映像を見ても、当時の代表がとても良い雰囲気だったのが伝わってきました。実際のところはいかがでしたか?

中田 非日常ですよね。外部のことが分からないんですよ。で、テレビを見てたら、何か知らないけど自分の親がテレビに出てたりする。「どうなってんだよ、おい」って(笑)。中は中で楽しんでいたしね。卓球やビリヤードをやったり、トルシエをプールに落としたり。年代のバランスもいい集団でしたよね。ヒデさん(中田英寿)やマツくん(故・松田直樹さん)、ツネさん(宮本恒靖)が僕らの上にいて、ゴンさん(中山雅史)やアキさんが引っ張ってくれた。僕らは付いていくだけで良かった。でも、さすがに初戦は緊張しましたよ。スタジアムが真っ青に染まって、アンセムが流れて。鳥肌が立ちました。でもね、あまり「ワールドカップ」って感じがしなかったんですよ、正直。

それは今振り返ってみると、だからではないのでしょうか?

中田 いや、本当に。だって会場がいつもやっているスタジアムなんだから。すごく《ホーム感》があった。緊張はしたけど心強かった。「ここは俺たちの場所だ」、「俺たちのホームだ」って思えたから。でもね、隔離されている分、外に出た時に「どうやら日本中がすごいことになっているようだ」という期待感は感じましたよ。新幹線が駅を通過する時にホームからものすごい「ニッポン」コールが聞こえてくるんですよ。俺たちがその新幹線に乗っているのを知っていたんでしょうね。電車が走ってるのにだよ。あれはすごいと思った。

6月4日のベルギー戦、失点直後に鈴木隆行選手(現水戸ホーリーホック)のゴールで追い付き、稲本潤一選手(現川崎フロンターレ)のゴールで2-2と引き分けました。

中田 初戦を落とさなかったことが大きかったよね。「これでいけるんじゃないか」という雰囲気になった。日本代表はそれまでW杯で勝ち点を獲得したことがなかったんだから。短期決戦の大会初戦は本当に大事。それで流れが変わるからね。あそこで負けていたら、3タテを食らっていたかもしれない。でもね、意外に選手は冷静でしたよ。(6月9日に)ロシアに勝って、盛り上がったのは盛り上がったけど、すぐに(6月14日の)チュニジア戦があったし。1勝するためにW杯に出ているわけじゃなく、俺たちはその先を見ていた。テレビで日本中が盛り上がっているのを見ると、逆に冷静になれましたよね。ただ、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦(6月18日)で、僕のミス絡みで負けてしまったのが、今でも悔しい。

あのミスは引きずりましたか?

中田 うーん。引きずるつもりはなかったけど、やっぱりね……。多少は引きずりましたよ。引きずらなかったら「もっと反省しろよ!」って話だし(苦笑)。ただ、大会が終わった後の疲労感は、半端なものじゃなかった。

その後、トルシエ監督とはマルセイユで再会することになります。中田選手にとってのトルシエとは。

中田 自分を新しく「作ってくれた」監督ですね。それまでセンターバックをやったことがなかったのに、そういう選手に育ててもらった。ラインディフェンスを教わったのも初めてでしたしね。僕はやっぱりフィリップに「作られた」んですね。こんなことを言うのはイヤなんだけど(笑)。

勝負だから勝ち負けはある。でも、落としてはいけない試合がある

その後、鹿島でもゆかりの深いジーコさんが日本代表の監督に就任しました。ジーコ監督時代に印象深かったことは。

中田 一報を聞いた時から楽しみでしたね。代表監督にふさわしい方だと思っていましたし。

どんな監督にも良いところ、悪いところはあるものです。ジーコ監督は、毎日目の届くところにいる選手たちを指導させれば必ず結果を出す方だとも思います。ただ、代表チームとクラブでは「仕事」が違う。代表監督としてのジーコは、中田選手の目からご覧になっていかがでしたか。

中田 基本的に、ここ(鹿島)でやっていたことと同じでした。ほとんど変わらなかったですね。フィリップはほとんどやらなかったけど、ジーコはヒデさんと伸二とシュンくん(中村俊輔/現横浜F・マリノス)を同時に並べたり、選手の発想に任せた攻撃をさせてくれた。ジーコが与えてくれたいい意味での「自由」がうまく発揮できた時は、とても強い勝ち方をしたチームだったと思います。ただね、最初にも言ったけど、日本人って「自由、自由」って言われると、逆に何をしていいのか分からなくなる傾向がある。それが悪い形で出てしまった試合ももちろんありましたよね。

ブラジル代表は世界中に散らばっていて、2、3日しか集まらないのに《共通の曲》を演奏できます。それは100年の歴史があって、ようやくできたものなのでしょうが。

中田 そうでしょうね。ブラジルはずーっと子供の頃から同じことを教わっていて、サッカースタイルにも伝統があるから、パッと集合しても同じ意識でサッカーができる。ブラジルは守備戦術の一つとしてポゼッションを平気でやるけど、僕らが彼らのようにボールをつなぎ続けられるかと言うと、そうではない。日本が経験しなければならないことは、まだまだたくさんありますよね。でもね、ジーコが監督だった04年のアジアカップを思い出してほしいんですよ。すごく不思議な勝ち方をしたでしょ?

様々なことが神懸かっていたと思います。サッカーってなんて、不思議なスポーツなんだろうと痛感させられました。

中田 印象深い大会ですよね。アツさん(三浦淳寛)や(藤田)俊哉さんがうまく引っ張ってくれたんですよ。決勝トーナメント1回戦のヨルダン戦のPK戦もそうですし。準決勝のバーレーン戦で僕はヤット(遠藤保仁/現ガンバ大阪)が退場して出場したので、「これで負けたらシャレにならない」と思っていました。この試合で自分が代表初ゴール。中国とのファイナルでは決勝ゴールを決めることができました。いいチームでしたよ。ジーコが監督だったからこそできた、強い代表だったと思います。

06年のドイツW杯は残念ながらブラジルとのグループステージ第3戦のみの出場に終わり、チームも1分け2敗と結果を残すことができませんでした。「たられば」の話は禁物ですが、世界で勝つために足りないものがあったとしたら、それは何だと思いますか?

中田 言葉は悪いかもしれないですけど、「運」じゃないですか。あのチームは雰囲気もコンディションも良かったんですよ。「チームの雰囲気が……」って言う人もいるけど、別にそんなことはなかった。世界一のスポーツイベントであるワールドカップを目指している時に、チームの和を乱す人なんていないです。結局ね、初戦なんですよ。オーストラリア戦で引き分けたり勝ったりしていたら、すべてがうまくいったと思う。同じ負けるにしても、負け方が悪過ぎた。選手同士でミーティングをしたり、話し合ったりして、何とかその流れを変えようとしたんですけど、それも遅かった。サッカーって相手があることだから、勝ち負けは必ずある。そこで一つでも上にいくためには、絶対に「落としてはいけない」試合があるんです。それを日本代表だけじゃなく、フランスやスイスでも、そして鹿島でもずっと感じてきたかな、俺は。いや、それはやっぱりね、鹿島で教わったことなんだと思う。教わったと言うか、自然と身に付けさせてもらったんでしょうね。鹿島アントラーズというクラブの伝統から。

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