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慶應大から新潟へ、MF端山豪「目標はドイツ移籍とW杯出場」

2016.01.31

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インタビュー=安田勇斗 写真=平柳麻衣、Getty Images

 小学3年から高校3年まで10年間、東京ヴェルディでエリート教育を受け、慶應義塾体育会ソッカー部では不動の司令塔に君臨。昨夏にアルビレックス新潟への加入内定を勝ち取った。端正な容姿もあって挫折とは無縁に見えるかもしれない。しかし、端山豪は高校時代と大学時代に計3度の長期離脱を強いられ、ユース時代には大学進学を決断、4年後の進路には古巣の東京Vを断って新潟加入という苦渋の選択を迫られていた。

トップチームが目指すべき場所だと思ってました

――サッカーを始めたきっかけは?
端山 幼稚園の頃から園庭でボールを蹴って遊んでいて、小学校に入学すると同時に地元の少年団に入って本格的にサッカーを始めました。

――幼稚園から、というと家族にサッカー好きがいたりしたんですか?
端山 母親がサッカー好きで、ペルージャ時代の中田英寿さん(元日本代表)のポスターが今でも家に張ってあります(笑)。もしかしたら、その母親の影響があったかもしれないですね。小さい時から自然とボールを蹴ってましたし、少なからずサッカーを始めるきっかけにはつながったと思います。

――最初に入ったクラブはどんなところだったんですか?
端山 成瀬サッカークラブというチームで、そんなに強豪ではなかったです。たまたま自分の代にはうまい選手が何人かいて、市大会では2位とか3位にはなりましたけど。

――そこから東京ヴェルディの育成組織に加入しますが、どういう流れで入ったのでしょうか?
端山 小3の時にスクールに入って、小4になる時にセレクションを受けてヴェルディジュニアに入りました。

――他の選択肢もあったと思いますが、なぜヴェルディを選んだのでしょうか?
端山 成瀬サッカークラブの2つ上の先輩でヴェルディに行った方がいたんです。1年しか一緒にできなかったんですけど本当にうまくて、その先輩の影響がありました。それと成瀬サッカークラブの指導者の方が「地域のチームにいても目立たないから、強いチームに行った方がいい」とアドバイスしてくれて。自分も強いチームでやってみたいと思っていたのでヴェルディに行くことを決めました。

――元々ヴェルディでプロになりたいと思っていたんですか?
端山 ずっと思っていました。小学校でジュニアに入った時から、トップチームが目指すべき場所だと思ってましたし、それ以外のことは全然考えていませんでした。

――当時、Jリーグを見に行ったりもしたのですか?
端山 はい。でも実は、サッカーを見始めた時はヴェルディではなく(横浜F・)マリノスを応援していました(苦笑)。中村俊輔選手に憧れていて。でも、さっきも言ったとおり、ジュニアに入ってからはずっとヴェルディのトップチームに行きたいと思っていました。

――そのトップチームを目指して、次はジュニアユースに昇格しました。
端山 ジュニアは1学年につき10人ぐらいで、そのうち何人かはジュニアユースに上がれなかったのですが、僕はそのまま上がることができました。ジュニアユースには外部からも選手が入ってきて、この時に半分弱ぐらいが入れ替わりました。

――ジュニアユースでの実績はどうでしたか?
端山 僕の代はそんなに強くなかったんですよ。3年の時もクラブユース選手権に出られなかったですし。だけど、僕は一つ上の代に帯同させてもらっていて、中学1年の時にナイキ プレミア カップ ジャパン 2006で優勝しました。試合にも出させてもらい、決勝で点を決めることもできました。まあ最後に出て、最後に決めただけなんですけど(笑)。それと2年の時はクラブユース選手権で準優勝しました。あと個人的には、JFAエリートプログラムなどには呼んでもらいました。

――確かに二つ上、一つ上には有名な選手がそろっている印象があります。
端山 そうですね。二つ上は窪田良選手(徳島ヴォルティス)や高木俊幸選手(浦和レッズ)などの代で、一つ上は高木善朗選手(東京ヴェルディ)と小林祐希選手(ジュビロ磐田)、キローラン木鈴選手(ブラウブリッツ秋田)とキローラン菜入選手(松本山雅FC)などがいたので。

――そしてジュニアユースからユースへと昇格しましたが、高校3年間はいかがでしたか?
端山 記録を見返すと、公式戦に一番多く出たのは1年の時なんですよ。実際すごく自信になる1年でした。ヴェルディで試合に出て、U-17日本代表にも選出されてメキシコでのコパ・チーバス2010にも出場して。でもメキシコから帰ってきて3月ぐらいに骨折して、高校2年の夏前まではリハビリを続けていました。クラブユース選手権には間に合ったんですけど、初めて手術を経験して体の感覚が今までと違って、思いどおりのプレーができませんでした。チームは優勝したんですけど、僕はギリギリ、ベンチに入れてもらっていた感じで悔しかったですね。それから冬に腰椎分離症になってしまい、高校3年になるぐらいまでリハビリと練習の繰り返しで、全然トップコンディションに持っていけなくて。この頃から大学進学を考えるようになりました。

――腰椎分離症は、具体的にどういう形で発症したのですか?
端山 高2の終わりにU-20ワールドカップを目指すU-18日本代表候補の合宿に参加したんですが、1日目に腰椎分離症を発症して離脱しました。まだその時は、どの程度のけがか認識できていなくて、結局そこから1年近くひきずって。そこまでひどいとは思わず、夏のクラブユースに向けてリハビリを続けました。それでクラブユースには出られたんですけど、予選の1試合目でスタメンで出て、その試合でまた腰に激痛が走って。そこからは様子を見ながらプレーする感じで、またチームは優勝できたんですけど、僕自身は主力で活躍することはできませんでした。

――どの程度の痛みなんですか?
端山 腰全体が痛くて、痛くない日でもワンプレーで痛みが走ることがあって。背中の筋肉が上から下まで張って動けなくなることもありました。ベッドから起きあがれなかったり、学校に行けないほど痛かったり、本当につらかったです。

――そこまでの大けがを経験した中で、サッカーを辞めることなどは考えなかったのでしょうか?
端山 かなり落ちこみましたけど、クラブユースで活躍できなかったことによる不完全燃焼の気持ちの方が大きかったというか。大会が終わって、トップチームの練習に参加させてもらった時も相当無理してやりましたね(苦笑)。見てもらうチャンスだったので必死でプレーしたんです。でも一方で、相当苦しかったので「この状態で続けるのは危険だ」とも思っていました。そう考える中で、まずは大学へ行った方がいいと強く思うようになりました。

大学を選んで良かった

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――そこから慶應大へはどう結びついていったのでしょうか?
端山 トップチームに昇格できたかどうかはわからないですけど、9月後半には大学に行くことを決めました。その中で慶應を希望したのは、ヴェルディユースの一つ上の山浦新さんが慶應のサッカー部で活躍していたのがきっかけです。慶應が強いチームであることも魅力に感じましたし、サッカー以外の面も重視していて、勉強もしっかりできて人間としても成長できる場だと思ったので、慶應大を受験することを決めました。

――大学進学によって、プロを目指せるところから4年間離れることになります。不安などはなかったのでしょうか?
端山 もちろん(JFA・Jリーグ)特別指定選手の制度は知ってましたし、在学中にJリーグの舞台に立つチャンスがあることも頭に入れていました。一方で、学校に通いながら、同年代のプロ選手に追いつくことが難しいことも理解していました。相当大変だとは思っていましたけど、あの段階では実力的にも厳しかったと思いますし、大学を選んで良かったと思っています。

――約10年、お世話になった東京ヴェルディで一番成長したと思う部分は?
端山 周りのレベルが上がっていく中で、負けず嫌いな気持ちが強くなったところが一番だと思います。

――クラブユースから大学サッカーに進んで、レベルやスタイルの違いは感じましたか?
端山 大学の方がレベルが高いなと感じました。ゴール前のコンビネーションの質など細かい部分はユースと大きく変わらないんですけど、フィジカルやスピードは全然違うなと。

――1年生から試合に出ていましたね。
端山 でも先発出場は2試合しかなかったので。1部残留が決まって、最後の2試合だけで。ただ、初先発の試合で2点決めることができて自信は得られました。

――腰の状態は問題なかったのですか?
端山 受験勉強で2カ月ぐらい動いてなかったので、最初はキツかったです。5月ぐらいからかなり動けるようになって、終盤ではユース時代の、体が動かない感覚が抜けて、思いどおりプレーできるようになりました。

――大学2年生の時には、特別指定選手として東京Vに復帰しました。
端山 6月にヴェルディと練習試合をして、当時の三浦泰年監督に目をつけてもらって練習に呼んでいただき、そこでアピールを続けて特別指定のお話をいただきました。その時はトップチームに昇格した同期の杉本(竜士)や南(秀仁)に追いつくチャンスだと思いましたし、特別指定であっても試合に出て活躍しないと意味がないと思っていました。なので、登録してもらった時はうれしい気持ちよりも、より一層努力しないといけない、という気持ちが大きかったです。

――2013シーズンのJ2第24節、コンサドーレ札幌戦でデビューを飾りました。
端山 自分がジュニア時代から憧れていた味スタ(味の素スタジアム)で、プロとしてプレーするのは初めてだったので不思議な感じがしました。プロになって戻るという決意でユースから大学に行きましたけど、1年半後にここでプレーするとは思ってもみなかったので。

――緊張はしましたか?
端山 相当しましたね(苦笑)。冷や汗は出るし、体は鉛のように重いし。でもデビュー戦はまずまずできたんじゃないかと思います。

――ヴェルディではトータルで7試合に出場しました。
端山 まだまだ自分の実力が足りないなと痛感しました。天皇杯で大学がJクラブに勝つこともあって差はなくなってきたとは思いますけど、Jリーグの試合では一つのミスが失点につながりますし、得点を決める最後の精度では、まだプロの方が上だと感じました。

――大学3年では、リーグ開幕の明治大学戦で大けがを負ってしまいました。
端山 翌年にはユニバーシアードもあって、3年が勝負の年だと思っていたので、夏までプレーできないと知ってかなりショックでした。でも、僕がいない間にチームは結果を残していたので、自分が合流して優勝争いに加わっていくことをイメージしながら前向きにリハビリに取り組むことができました。

目標を達成できなかった時に、自分がどうできるかが大事

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――そこから復帰して、4年になって夏にアルビレックス新潟への加入内定が発表され、特別指定として一時期チームに帯同していました。どういう経緯で加入が決まったのでしょうか?
端山 4月にオファーをいただいたのですが、決めるのはユニバが終わってからにしようと思っていました。ユニバが終わるまでにヴェルディからもオファーをいただき、悩んだ末に新潟に行くことを決めました。新潟は比較的少人数だったので、何かあった時のために加入内定と同時に特別指定に登録していただきました。

――新潟を選んだ決め手は?
端山 先に新潟からオファーをいただいたので、そこから先のビジョンを思い描いたりしていました。それからしばらく経ってヴェルディからも声をかけてもらったのですが、自分の中では本当に五分五分でした。ヴェルディはジュニア時代から10年もお世話になったクラブですし、ずっとヴェルディでプロになることを目標にしていたので。その中で決め手になったのはJ1の舞台で挑戦できることと、新しい環境でチャレンジしたかったからです。ヴェルディにはユースの先輩後輩、同期など気心の知れたメンバーがいますし、一緒にJ1を目指すことは本当に魅力的でした。でも自分がより成長するためには、知らない選手や監督、サポーターがいる場所で結果を残すことが必要かなと。それで新潟に選びました。

――なるほど。その新潟に対して、どんな印象を持ちましたか?
端山 加入が決まった時は特に順位が良くなくて、セカンドステージで結果を残さなければいけない状況でした。でもいい意味で焦りがなく、自分のたちのやっていることを信じてブレずに戦うタフさがありました。チームの一員になってそういう芯の強さみたいなものをより感じましたね。

――刺激を受けた選手はいましたか?
端山 僕にとっては柳下(正明)監督の存在が大きかったですね。シュートを打つ時の足の向きなど細かいところにも気づいて指摘してくれる方で、本当に感謝しています。また選手たちは、僕みたいな新参者を寛容に受け入れてくれて、自分のプレーがチームのやり方と違った時にも丁寧に教えてくれてありがたかったです。

――特別指定選手として昨シーズンは8試合に出場しました。印象に残っている対戦相手はいますか?
端山 中村俊輔選手とは昔から対戦したいと思っていて、実際に同じピッチに立つことができました。僕が途中出場で、中村選手が途中交代で下がったので時間は短かったですけど本当にうまかったです。相手の嫌なところにパスを出すだけじゃなく、ボールに関与していなくても嫌なポジションにいるんです。それが気になって、他の選手にマークに行きにくくなったり。駆け引きがうまい選手だと思いましたね。

――他にもそういう選手はいましたか?
端山 ガンバ大阪の遠藤保仁選手のポジション取りも嫌でしたね。新潟は遠藤選手へのマークを徹底していたんですけど、その戦術を知ってかかなり早い段階から、タッチライン際にポジションを取るんです。僕らはマークに行かないといけないので、ボランチ2人が追いかけていく。そうすると中央ががら空きになってそこを突かれてしまうんです。相手を見て考えながらプレーしているのがよくわかりました。

――間もなく大学を卒業しますが、4年間で一番の思い出は?
端山 2013年に経験した残留争いですね。自分にとって一番のターニングポイントだったと思います。ずっと真剣にやってきたつもりでしたけど、あの時期を経てもっと真剣に取り組むようになったかなと。チームとして本当に必死にプレーしましたし、準備もしっかりしましたし、日常生活も変えていきました。苦しかったですけど、良い経験でしたね。

――では、4年間で一番成長できたところは?
端山 いろいろ考えるようになったことです。高校までは学校に行って練習することの繰り返しでした。それが大学では、どう計画を立てていくか、月単位、週単位で自分がプロになることを逆算して考えていましたし、そのために今何が課題でどのようなトレーニングが必要かをしっかり考えて行動できるようになったのは、自分の中で成長した部分だと思います。

――これまでのサッカー人生を振り返って、恩師と呼べるような方はいますか?
端山 慶應大の須田芳正監督にはとてもお世話になりました。ヴェルディで長い間サッカーを教わってうまくはなったと思います。そこから大学に進学して、須田監督と出会って厳しく指導していただいてさらに成長できたかなと。特に選手として社会人としてのあり方を須田監督から教わることができて良かったです。

――特に思い出に残っていることはありますか?
端山 2年生の時からチームの中心としてプレーさせてもらっていた中で、僕はチームメートにいろいろな要求をしていました。それを監督から「全員が同じレベルでプレーできるわけではない。チームが最大の力を発揮できるように要求しろ。そこまで周りに要求するならお前がもっとやれ」と厳しく言われました。そこまで言われて、何としても結果を残したかったので、次の試合ではゴールは決められなかったんですけど、前半だけで10本はシュートを打ちました(笑)。

――周りに求めるものが高かったんですね。
端山 はい。自分としては真面目にやっていましたし、勝ちたい気持ちが強かったんですけど、それが周りに押しつけることにつながっていたんだと思います。そこで監督に厳しく指摘してもらって、人に言うには自分がもっともっとやらないといけないと気づきましたし、チームのバランスを考えるようになりました。

――それは「周りへの要求を下げる」とも取れます。
端山 確かに「何で要求を下げなきゃいけないんだ」とは思いました。でもそれ以上に、勝つためにはバランスを考えることが重要だと理解できるようになりました。自分が言わないことで伸び伸びプレーできる選手もいますし、言い方を変えることでいい方向に向くこともあると思います。すべて自分に合わせるのではなく、チームのベストなバランスを見つけていく必要があると感じています。

――間もなく新潟でのシーズンが開幕します。1年目の目標は?
端山 開幕からスタメンで出て、5ゴール10アシストを決めることです。

――将来的な目標は決まっていますか?
端山 新潟で活躍して、日本代表に入って、海外でプレーして、ワールドカップに出場することです。自分の中ではいつ実現させるかというビジョンがありますが、必ずしもうまくいくとは限らないですし、むしろ目標を達成できなかった時に、自分がどうできるかが大事だと思っています。

――海外でプレーしたい気持ちはありますか?
端山 いつかドイツでプレーしたいと思っています。多くの日本人選手が活躍してきた実績がありますし、熱狂的なサポーターも多いので。海外移籍を見据えて、空いた時間に英語の勉強もしています。

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