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電撃移籍から10年。“ミランのネスタ”誕生の裏側を検証

2012.05.11

CALCiO2002 2012.05.12(No.148)掲載]
 アレッサンドロ・ネスタは20代前半をラツィオのバンディエラとして過ごした。ヨーロッパを席巻したビアンコチェレステの、若く偉大なるリーダーである。だが、彼は信じられない安価でミランに売却され、“黄金郷”もあっけなく消滅した。その出来事が、その後10年のネスタのキャリアに大きな影響を与えたのは間違いない。

 そして、2012年5月10日、ネスタはミラノでの生活にピリオドを打つことを表明した。ラツィオからミランへ移籍した年からちょうど10年。彼は数多くのタイトルの獲得に貢献し、輝かしいキャリアを築いた。しかし、ラツィオを去った経緯については未だ謎が多い。10年前の出来事を振り返るとともに、ミラン移籍がネスタにどう影響したのかを検証しよう。


Text by Roberto FUSARO

 2000年、ラツィオは“北の3強”と肩を並べ、ビッグクラブとしての地位を確立した。その決定打となったのが99-00シーズンのスクデット獲得である。“7姉妹”の時代、“北の3強”は好不調の波が激しく、しばしば中位にまで落ち込んでいた。その一方で、常に上位をキープしていたのはカルチョの新興勢力であるラツィオだった。

 当時のラツィオは、資金力と野心で他を圧倒していた。数年前までのチェルシー、現在のパリ・サンジェルマンのような状況を想像してもらいたい。金に糸目を付けずにフォリクラッセを買い集め、“ドリームチーム”でタイトル独占を狙うチームはいつの時代にも存在するが、金に任せて作ったチームは、往々にして戦力は充実していてもチームとしてのまとまりを欠き、善戦してもタイトルに手が届かず終わるケースが多い。オイルマネーを味方につけたチェルシーがその典型的な例だろう。その点、実際にビッグタイトルを次々に手にしたラツィオは他と一線を画している。

 マルセロ・サラス、フアン・セバスティアン・ベロン、マティアス・アルメイダ、パヴェル・ネドヴェド、シニシャ・ミハイロヴィッチ……ワールドクラスのタレント、しかも当時が働き盛りの選手ばかりである。そんなラツィオでキャプテンマークを巻き、チームの結束力の中心となっていたのがアレッサンドロ・ネスタだった。

 当時のラツィオ会長、セルジョ・クラニョッティには、サッカー界の頂点に立つという大きな野心があった。食品会社のオーナーである彼が、『チリオ』のブランドを世界に広めるための広告塔としてラツィオを買収したのが92年。だが、カルチョで成功を収めたいという野心は年々大きくなっていった。

 彼は卓越した起業家だった。ラツィオを上場させ、株式市場から集めた資金でビッグネームを獲得するという手法は、当時のサッカー界においては極めて斬新だった。「街の成功者が富の象徴としてサッカークラブを所有する」といった概念がまだ残っていた時代である。個人の資産を投じたところでたかが知れている。だが、クラニョッティは違った。ラツィオが有名選手を獲得してタイトルを取るたびに株価は上昇し、そこに新たな資金が生まれ、また大型補強を行うというサイクルが機能していたのである。

 まさに現代の錬金術と言うべきだろうが、クラニョッティには優れたサッカークラブの会長が持つべきバランス感覚も備えていた。世界中からスター選手を買い集める一方で、地元出身で下部組織からの生え抜きであるネスタをチームの看板に据えた。当時の10番、ロベルト・マンチーニは、「ミスター・サンプ」と呼ばれたサンプドリア黄金期の絶対的なキャプテンだった。だが、そんなマンチーニを差し置いて、クラニョッティは“チームの看板”としての役割をネスタに託したのである。

 99-00シーズンは完璧な1年となった。前シーズンにカップウイナーズカップを制していたラツィオは、シーズン開幕を告げるUEFAスーパーカップに出場し、チャンピオンズリーグ覇者のマンチェスター・ユナイテッドを撃破。その9カ月後、スクデットとコッパイタリアの2冠を手にしてシーズンを終えたのである。この時点で、ラツィオの前途に不安を抱くような者はどこにもいなかった。サッカー界のエル・ドラド(黄金郷)──。クラニョッティとネスタのラツィオは、トップクラブの仲間入りを果たし、さらに成功を重ねると見られていたのである。

 そのエル・ドラドが崩壊への一歩を踏み出したのは2002年8月31日だった。ネスタがラツィオを退団し、ミランの一員になることが決まった日である。ネスタの移籍話は、彼がレギュラーとして活躍し始めた時期からたびたび浮上していた。だが、そのすべては、「他のビッグクラブがネスタ獲得のために巨額のオファーを提示し、クラニョッティに断られた」というもの。DFに高値が付くことはあまりないが、ネスタは例外だった。この頃の報道を振り返ると、2000年の春から夏にかけて、ユーヴェ、インテル、レアル・マドリーが30億円を超えるビッグオファーを提示したというニュースが次々と出てくる。

 クラニョッティは冷徹な起業家として、「ラツィオに“非売品”はいない。どんな選手であれ、適切な金額のオファーがあれば売る」と言ってはばからなかった。だが、資金力で他のビッグクラブを圧倒するラツィオに、若きバンディエラを売る必要はどこにもなかった。

 ところが、02年夏のメルカート最終日、ネスタのみ移籍が電撃的に発表される。この日の早朝に第一報が流れると、フォルメッロ(ラツィオの練習場)には3000人のファンが集まった。クラニョッティへの抗議と、ネスタに残留を懇願するためである。ネスタは午前中の練習に参加するためにフォルメッロに現れたが、そこで移籍を聞かされ、ミラノに向かうことになった。集まったラツィアーレに、ネスタがバンディエラとして投げかけられる言葉はもはやなく、後に「クラブを救うために移籍する」というメッセージだけが発表された。

 どうしてラツィオはネスタを売る必要があったのだろうか? クラニョッティもネスタも、これまで公式に説明したことはない。金がなかったわけではないだろう。この夏のメルカートで、ラツィオはエルナン・クレスポとクラウディオ・ロペスの獲得に大金を投じているぐらいだ。“傭兵”を新たに雇い入れる一方で、生え抜きの若きカピターノを放出したクラニョッティの判断は理解に苦しむ。

 しかし、クラニョッティの錬金術は破綻寸前だった。もともとクラニョッティはサッカークラブの会長でも、食品会社の社長でもない。企業買収でのし上がってきたM&Aのプロである。だが、10年間に渡って膨張し続けた所有企業の株価は、実際の経営規模よりはるかに高額になっていた。この数年後、彼は粉飾決済や違法な株価操作の罪で逮捕され、実業界から姿を消している。

 クラニョッティのエル・ドラドが行き詰まった時、最初の犠牲となったのが、バンディエラであるネスタだったのは皮肉と言うしかない。ネスタをミランに譲渡したことでラツィオが手にした移籍金は1000万ユーロ、当時のレートで13億円に過ぎなかったと言われている。ミラン、ラツィオともに正式発表をしていないので、金額は憶測に過ぎないが、これが本当であれば理解しがたい安値となる。シルヴィオ・ベルルスコーニはこの時期、政権を取って1年が経過したところで、強硬路線が功を奏して高い支持率を得ていた。窮地に陥った投資家と共和国首相の間に「政治的取引があった」という噂も、あながち荒唐無稽ではあるまい。

 この“事件”がアレッサンドロ・ネスタという一人の人間の人格に極めて大きな影響を与えたのは事実だ。快活な少年は言葉少なな青年になった。個人としての役割を100パーセント果たす一方で、それ以上の重荷を背負おうとはしない。ミランでの彼が、チームを代表するような形で発言をしたことは一度たりともない。それは、ラツィオ時代に精一杯気を張っていた彼とは正反対の姿だ。

 もともと、世界的なフォリクラッセが集まるロッカールームを24歳の若者に仕切らせるという形がいびつだったのかもしれない。ネスタは自分に最大限の信頼を寄せるクラニョッティに感謝する一方で、その人間性には大いに疑念を抱いていたようだ。ビジネス優先であまりにも「スポーツ的でない」運営方針がその原因と見られている。

 いずれにせよ、その後の10年間でもネスタは偉大なキャリアを築き上げた。2度のチャンピオンズリーグ制覇とワールドカップ優勝というタイトル以上に、そのエレガントで頭脳的なディフェンス技術は見る者に感銘さえ与えた。ただ、そのキャリアは20代前半に彼自身が思い描いていたものとは大きく異なっている。

 アレッサンドロ・ネスタは語らない。自身のキャリアを変えたラツィオ退団騒動についての自身の見解を、せめて引退後には話してもらいたいものだ。

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