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哲学的志向のフットボーラー、西村卓朗を巡る物語「第四回 家族」

2015.05.25

「わが身はわが心を養い わが心はわが身を導く」(西村孝次)

文●川本梅花

〔登場人物〕
ぼく…西村卓朗(Jリーグ大宮アルディージャ所属)
父…卓
母…園子
姉…由香里
祖父…孝次

1. 詩人のような言葉を持った祖父

 もしかしたら夏を越すのは無理かもしれないとなんとなく感じていた。
 
 6月の最後の土曜日、東京近郊に住む親戚一同が、ケア・センターに呼び出される。96歳の祖父、孝次が入所していた部屋には、白いベッドが置いてある。横になっている祖父は、以前会った時よりもずっと小さく見えた。祖父が息を引き取った瞬間、ぼくの背中がすっと軽くなっていく気がした。

 祖父は、文芸評論家の小林秀雄の従弟であり、東京の大学で英文学を講じる学者だった。いつも書斎にこもって本を読んでいるか文章を書いているか。祖父にはそんな印象を持っている。アイルランド出身の作家オスカー・ワイルドの全集を個人で初めて全訳した人と言われても、ぼくにはそれがどれほどすごいことなのかまったく想像がつかない。けれども祖父は、詩人のように印象的な言葉をぼくの脳裏に残してくれた。

「人生には駄作なんてない、人生とは傑作なのだ」

「わが身はわが心を養い わが心はわが身を導く」

 これらの言葉は、ぼくが高校生の時にメモしたものだ。子供の頃から、印象的なフレーズや心に残った言葉を、忘れないうちに紙に書き残すようにしていた。特に祖父の言葉は、心に響くものがある。しかし、その言葉が何を意味しているのか、子供のぼくには理解できなかった。その言葉の意味が、何であるのかを身をもって知ったのは、浦和レッズに入団してからだ。当時の状況は、サブメンバーに登録されても、試合には出られなかった。怪我もなくコンディションは常にベストを保っていても、ずっとサブメンバーのままだった。そうした状況が長く続くと、人は心が萎えていくものだ。さらに、自分はプロとして周りに認められていないとさえ思えてしまう。そんな時にぼくは、祖父の言葉をしばしば思い出す。試合に出られない状況では、身体で貴重な経験は積めないけれども、その苦しい期間を過ごしていく中で、モチベーションを保ちながら心の部分で身体を支えていくことが、後に身体に生かされることになるに違いない。また逆に、大宮に移籍してからレギュラーで試合に出るようになると、ピッチの上で身体を通して感じた経験を心にフィードバックして、そこから得られたものが養しなわれる。その反復が、サッカー選手としての世界を作っていく。ぼくは、祖父の言葉をそう理解したのだった。
  
 祖父が亡くなってから数日後に、過去の日誌をアパートに持っていくために、実家の自分の部屋を掃除していた。ぼくは、小学5年生の時から練習で気がついたことをメモしている。最初のきっかけは、壁に紙を張ってその日のシュートの数を記録することからだった。やがてそれは日誌という形になって、プロになった今でも習慣として続いている。段ボールに仕舞い込まれていた日誌を整理していると、その様子をうかがいに父が部屋に入ってくる。父は、ぼくに一冊のアルバムを黙って手渡す。そこには、祖父が作成したぼくの記録があった。ぼくの名前が記載された新聞や雑誌の切り抜きが、きれいに並べられている。それが、地方の新聞でもどんな小さな記事であってもだ。祖父は、「Jリーグで試合に出ている姿を早く見たいね」と父によく話していたと言う。しかし、ぼくが試合に出られるようになったのは、祖父が亡くなって4ヶ月してからだったのだ。

2.父への叱責とあるプロ野球選手のメンタルケア

 父は祖父と対照的に、体育会系の出身だった。中学・高校と卓球部のキャプテンを務めて、大きな大会にも出場していた。もしも卓球でプロ化の世界があったなら、迷わずに卓球を続けていたと言う。だからスポーツで生活していくことには理解力があった。ただし父は、サッカーの知識に関しては怪しいものがある。当時浦和のスカウトだった落合弘が、両親と入団交渉をした時のことだ。すべての話し合いを終えると、父は、彼に尋ねる。

「ところで、落合さんはサッカー経験がおありですか?」

 落合は、微笑みながら浦和のオフィシャルブックを見せる。そこには、現役時代に日本代表だった落合の勇姿が写っていた。それくらい父のサッカーへの知識は怪しいものだった。おそらく、父は、オフサイドトラップがどんなルールなのかも知らなかったはずだ。
 
 そんな父が、練習試合を予告もなく観戦したり情報を集めたり、次第にサッカーに関心を持つようになる。というよりも、サッカーをやっているぼくに目を向け始めた。それには、姉の反抗期が終わったことに関係しているのかもしれない。ぼくには、反抗期というものがなかった。正確に言えば、反抗期を迎えるのを忘れるほど、サッカーに夢中になっていたのだ。とてもおとなしかった姉は、高校生になってから反抗期を迎える。夜中に気づくと、両親が姉に色々な話をしている場面を目にする。それは、三人が真剣に向かい合っている姿だった。ぼくの方は、サッカーさえできれば、試合や練習で日常とは違う新しい発見ができて、ぼくだけしか感じられない世界を作っていくことができた。だから、両親が姉に手を焼いている姿を見たからと言って、自分が両親に迷惑をかけないように振る舞わなければいけないと考えることはなかった。
 
 姉が結婚をして九州に嫁いでから、父は、以前よりもサッカーをしているぼくに興味を持つようになる。ある日、試合に出られないでいたぼくを前に、こんな風に呟いた。

「あの選手が怪我でもしてくれたら、卓朗が試合に出られるのになあ・・・」

 ぼくはその言葉を聞いて、生まれて初めて父を叱責した。

「何を言っているんだよ。そんなんで試合に出られたって何の意味もない」

 今から思うと、父の発言は、子を想う親の気持ちをふと表したものなのだろう。父は、後になって自分の発言を反省したと話していたけれども、逆にその時のぼくは、試合に出られないストレスから、精神的に余裕が持てないでいたのだ。
 
 ぼくは、メンタル面でもう少し上の段階にいく必要があった。ちょうどその時に、動体視力を強化するために通っていたトレーニング教室で、あるプロ野球選手と出合う。彼は、怪我の多い選手で治療にも時間を取られていた。身体がベストな状態になるまで回復させるのと同時に、気持ちの面も切れないようにケアをして維持することが必要だと語る。

 ぼくは、彼に思い切って訊いてみた。

「どんなメンタルケアをしているんですか?」

「内観法と言って、子供の頃から現在までの記憶を呼び起こすメンタルトレーニングがあるんだ。俺は、それをやってからどうして自分がプロでやれているのかがよく分かるようになった。気持ちも強くなれたと思うよ」
と、優しい眼差しで話す。

 ぼくは、プロのサッカー選手だ。身体的なスキルに関してはプロとして十分に通用している。しかし一方で、精神的なスキルは・・・どうか。そこは、プロとしてまだ成熟しているとは言えない。なぜならば、精神的な限界を自分の中で設けてしまっているように思えたからだ。つまり、メンタル面においてもプロ化しなければ、この先自分はやっていけない。そのことをあるプロ野球選手が教えてくれたのだ。

 そこでぼくは、「これは一度試してみる価値があるかもしれない」と考えて、内観法のトレーニング道場の門を叩くことにした。

 内観とは、自分自身の精神状態を観察する方法で、一週間の内に、過去の記憶を思い出していく訓練。ぼくは、両親や姉、少年サッカークラブのコーチだった上田明とのやり取りを思い出そうとした。けれども、数日経ってもまったく記憶は甦らなかった。しかし、研修所での1週間が終わろうとしていた前日、不思議なことが起こる。昔の記憶が洪水のように押し寄せてきた。例えば、喧嘩に負けて両親に泣きついているぼくを、ぼくが眺めている光景がはっきりと甦る。朝練に行くのに早起きできなくて姉に起こしてもらう場面。シュートを決めて上田に褒めてもらって喜ぶ情景。おぼろげだった記憶が、次から次へと鮮明になっていく。

 自己とは何か。

 こうして自分を支えているものとは・・・何か。

 それに対する答えを、ぼくは見つけることになった。

 記憶が整理されるに従って、哲学的と呼べる二つの問題が、ぼくの頭の中を駆け巡る。それは、〈自己達成を望む気持ち〉と〈自分を取り巻く人々〉の関係だ。これらは、自分がどんな人間であるのかを知るためには切り離せないことだろう。なぜならば、自己は単独で成立するものではないからだ。本来ならば、生きることも思考することも喜びであるべき。しかし、〈自己達成を望む気持ち〉が立ち過ぎると、それが邪魔になって前に進めなくなってしまう。つまり、自分が自分の中で〈こういうものだ〉という限界を作ってしまっている。そうした固定観念から抜け出すためには・・・自己とは他者の力で生まれて、他者によって育てられるものだ、という考えが必要になる。

 つまり、他者とは、自己に先行して存在しているのだ。

 メンタルトレーニングから得られたこうした内的体験よって、祖父の残した「わが身はわが心を養い わが心はわが身を導く」という言葉が、まったく別なものとなってぼくに響いてきた。

3.母からの長い手紙

 トレーニングが終わってから数日後、ぼくは、両親と姉に手紙を書く。その手紙には、「どうして自分がプロでやれているのか」ということを綴った。しばらくしてから、母から返事がある。それには、ぼくの知らない母の素直な気持ちが表現されていた。

「あなたから手紙を受け取って、色々と考えさせられました。あなたに反抗期がなかったのは、由香里の反抗期を見ていて、私たちに迷惑をかけてはいけないと、気を使わせてしまったからかもしれないと・・・。これは、母親としての私の育て方に起因しているかもしれませんね。
 
 私は、〈良い母親でありたい〉とか〈キチンとしつけができている母親でありたい〉と望んできました。〈あなたや由香里が他人に迷惑をかけないような子供になって欲しい〉と考えて育ててきたつもりでした。でもそれは・・・つまり〈私自身〉が世間から〈良い母親という評価〉をもらいたいからだったのかな・・・。あなたたちに〈社会的に良い人間になって欲しい〉と願ったのは、実のところ、自分がそのように世間から評価されたかったからかもしれない・・・と思えています。
 
 そして、私はその価値観の枠の中に納めようと子どもを育ててきたのではないか。だから〈親の言うことを良く聞く子〉として、由香里はとても聞き分けの良い子だったのでしょう。3才違いで生まれたあなたは、私たちの二人目の子どもということで、私は、育児にもずいぶん慣れてきました。そうした心のゆとりから、あなたはとてもやんちゃに育って、自由に自分の気持ちを表現できていたと思います。   
 
 授業参観の時のことを、覚えていますか?

 小学1年生の参観日の時のことです。前の方の席にいたあなたは、授業が始まる前に、みんなは座っているのに、一人だけ席から立ち上がって、教室の後ろに並んでいる私を見ながら、ニコニコとして両手でVサイン! 私や由香里には絶対にできないことを、全く気にしないでできるあなたには本当に驚き、同時に恥ずかしかったことを鮮明に覚えています。あなたは、目立つことがイヤだった私や由香里とは全く違った面を持っているのだと知りました。

 由香里は、中学や高校の頃に、部活での人間関係に悩んでいました。それから私たち親への不満。今までの自分のあり方に疑問を持ち始めて、由香里がどんどん成長していったのが、ちょうどその頃です。

 あなたは、体育や運動の分野では常にトップクラスで楽しんでいましたね。友達とも仲良くやっているように見えました。高校サッカーの頃からでしょうか、トップで活躍するのが難しくなってきて、自分自身のことを色々と見つめ直すことが必要になってきたのは・・・。個人のプレーではなく、チームの中でどのように自分を出していくのかと。

 こうしてあなたからの手紙を読んで・・・子供は親が育てているように見えても、自分で、その環境の中で、必要なものを学んで取り入れていくものなのですね。私たちも、自分に照らし合わせると、親との環境の中で反面教師的に学ぶこともあったことを思い起こします。

 そして、由香里もあなたも私たちのもとを離れて、新しい環境の中で、自分自身を見つめながら、変わっていく部分もあると思い知らされました。あなたの祖父や祖母、そして私たちの遺伝子も色んな具合に入り交じって、あなたはあなたの個性を創りあげているのですね。 母より」

 ぼくが、母からの手紙を久しぶりに読み返したのは、昨シーズンの甲府戦で、イエローカードを二枚もらって退場処分させられてから、数週間後だった。手紙を読んでから、アパートの窓の下の通りを見渡すと人影はなく、すっかり日が暮れた空を背景にして、冬の木々がシルエットになっていた。ぼくは、携帯を手に取って、記憶させた番号を押す。向こうから声がする前に、言葉を発する。

「新年あけましておめでとう」

「おめでとう」
 穏やかな母の声だった。

つづく

「第三回 涙」
「第ニ回 ライバル」
「第一回 手紙」

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