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哲学的志向のフットボーラー、西村卓朗を巡る物語「第三回 涙」

2015.04.30

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」(村上春樹『風の歌を聴け』)

文●川本梅花

〔登場人物〕
ぼく…西村卓朗(Jリーグ大宮アルディージャ所属)
父…卓
母…園子
姉…由香里
コーチ…上田明(スポーツクラブシクス)
波戸…波戸康広(Jリーグ大宮アルディージャ所属)

1.退場処分と波戸康広の振る舞い

 いつもより涼しい夜だった。久しぶりに嫌いな夢を見てしまう。背景が真っ白の中で、ぼくは誰かに追われている。追跡者が、人間なのか怪物なのか誰かは分からない。そいつに捕まらないように、ぼくは必死で逃げる。捕獲される前に空に飛び立とうとしておもいっきりジャンプする。しかし背中には、重い鉛を背負わされている感じがしてすぐに着地してしまう。目が覚めて天井をしばらく眺めてから窓を開けると、濁った雲が空に広がり微かに秋の匂いがした。

 ストライカーの矢野貴章(アルビレックス新潟)が、サイドを突破しようとタッチライン沿いに高速ドリブルを仕掛けてきた。《抜かれる》と思ったぼくは、とっさにスライディングをして矢野の足を引っ掛けて倒してしまう。審判がぼくに詰め寄って来る。彼は、〈イエローカード〉をかざした後で、すぐに〈レッドカード〉を提示した。ぼくはサッカー人生で初めて、一試合の中でイエローを二枚もらうという屈辱を味わう。試合終了近くに退場処分となったぼくは、ベンチに引き揚げる途中で、自分のプレーの未熟さに歩きながら泣いてしまった。

 今シーズンの大宮アルディージャは、残留争いの渦中にいる。リーグ中断期間に監督が交代して、ぼくは、なかなか試合に出場できないでいた。チームが波に乗り切れない時に、監督は何かきっかけを与えようとする。たとえば戦術を変えたり、選手起用をいじったりするものだ。だから、ぼくのポジションに別の選手が起用されても驚きはしなかった。プロ選手ならば、《よくあることだ》と思う。だからと言って、じっと指をくわえて〈出場チャンス〉を待っている訳にはいかない。そこでぼくは、新監督に二度ほど会話の場を作ってもらった。一度目は、遠征先のホテルで夕食の後に。二度目は、合同練習が終わってからピッチの上で。ぼくは、監督が「どういったサッカーをやりたいのか」と訊ねて、彼が望むスタイルに適合しようと日々努力した。そうしたアクションが実を結んだのかどうか・・・それは分からないが、ぼくは再びスタメンを奪い返した。しかし、新潟戦の前の晩に、久しぶりにあの〈嫌な夢〉を見てしまったのだ。

 前々節の新潟は、鹿島アントラーズに敗れはしたが、矢野の活躍が目立っていた。特に、ドリブルで二人のDFを置き去りにして、GKと一対一になり、なんなくゴールを決めたシーンは、ぼくの記憶に刷り込まれた。だから当然、彼のドリブル突破を封じ込むことが、その試合でぼくに与えられた使命となった。しかし、《彼のドリブルは危険だ》と記憶に刷り込んだことで、必要のないスライディングをやってしまい、チームにとってもぼくにおいても、退場処分後の逆転負けという最悪の結果を招くことになってしまった。

 試合が終わって、チームは、大宮に帰るためにバスで新潟駅に向かう。ぼくは、車中、タオルを頭にかぶって無言だった。残留争いの渦中にいるチームの状況を考えたら、この日の試合に関して誰かに何かを話せるほど、ぼくの性格はずうずうしくない。やがてバスが駅に着く。《新幹線に乗るまでの一時間をどうやって待てばよいのか》、と身の置き場のなさを感じていた。

 するとぼくの肩越しから「卓朗、メシ食いに行こうよ」と誘う声がした。声のする先を振り返ると、波戸康広が立っていた。ぼくは、彼が声をかけて誘ってくれたことに〈ほっ〉とした。そして、波戸と萩晃太と三人で駅のレストランに行くことにした。
 波戸は、席に着くとビールを注文する。
「試合の後のビールは最高だな」と言って、彼はいっきに喉に流し込む。「俺は確か、Jリーグで四番目か五番目に退場数が多いんだよ。しかしよくこんなにも退場したな、俺。ついつい、やってしまうんだなあ」と彼はあっけらかんとした話し方で、その場の雰囲気を明るくしようと、努めてくれているのがすぐに分かった。わざとビールを頼んで、自分の過去の退場劇を語る。そんな波戸の〈言葉〉と〈振る舞い〉に、ぼくは本当に「救われた」気持ちになれた。

2.恩師を思い出す車中

 新幹線が、新潟駅を出発する頃、外はもう暗くなっていた。じっと目をつむって少し眠ろうとする。けれども、目をつむるとさっきの退場シーンがリフレインして、その後に招いた逆転劇という〈悪夢〉が襲いかかってくる。ぼくは、自分のプレーの未熟さに心の置き場を失っていた。すると車内案内の声が、次の停車駅は「長岡」だと告げる。新幹線は、新潟から大宮に着くまで約2時間近くを費やす。ぼくにとってその2時間は、何倍にも増した時間になるような気がした。長岡駅に着くと、親子連れが乗車してくる。男の子はちょうど、小学4・5年くらいだろうか。親子は、隣の車両と間違えたようで、通路を通ってぼくの横を過ぎようとする。男の子は、ずいぶん行儀よく母親の後を付いて歩く。その子を見ていて、ぼくが彼ぐらいの年の頃は《やんちゃで、泣き虫だったなあ》と思い出す。ぼくはともかく、よく泣いていた。

 ぼくがサッカーを始めたのは、小学4年の時だった。同級生が、〈スポーツクラブシクス〉で少年サッカーをやっていたので、彼に誘われてボールを蹴ることになった。当時は、野球人気がサッカーよりも高くて、どちらのスポーツを選ぶのか迷った。野球の練習は週二回行なわれ、サッカーのそれは朝練習を含めると毎日あった。だから、「毎日ボールが蹴れるから」という理由で、ぼくはサッカーをやることにした。

〈クラブシクス〉の朝練は、新宿の戸山公園の中にある人工芝の小さなグラウンドで行なわれた。毎日の朝練の場所の確保と練習に必要なゴールを即席で作ってくれたのは、クラブのコーチをしていた上田明だった。彼は、ぼくにサッカーをやるきっかけを与えてくれた人だ。そしてぼくが、サッカーを嫌いにならないでやってこれたのも、彼に出会ったことが大きい。上田は、自分の息子が同じクラブにいても、みんなを平等に扱った。休日の時でも、自宅に子供たちを呼んでくれて、真剣にぼくたちの話を訊いてくれる。彼が、子供と誠実に向き合っていたことは、幼いぼくにも十分に理解できた。

 ぼくは、〈やんちゃ〉であり〈おっちょこちょい〉の一面もあった。ある朝、母に「行ってきます」と叫んで小学校に登校するために家を出る。その数分後に、「ただいま」と言って戻ってくる。母は、玄関のところで待っていてくれて、ぼくにランドセルを渡す。ぼくは、ランドセルを持たないで家を出たこと気づいて、登校途中から家に何度も戻ったことがあった。

 ある日、練習が終わってから、上級生のチームメイトと喧嘩して殴られたことがあった。上田は、泣いているぼくを見つけて、おぶって家まで連れて行ってくれた。別の日には、ミニゲームでぼくたちのチームが逆転しそうになった時に、「時間だから今日はそこまで」と言って彼はゲームを止めたことがある。
「なんで止めるんだよ」
 と彼を咎めた。
「もう学校に行く時間だから、続きは明日」
 と彼は言う。
「せっかく勝てそうだったのに。嫌だよ、試合続けようぜ」
「さあ、早く帰る準備しないと、遅刻するぞ」
「やろうよ。サッカーやりたいよ」
 というやり取りの後に、ぼくは大声で泣き叫ぶ。
 ぼくは、家に戻ってから両親に「もう朝練には行かない」と宣言する。
翌日の朝に、上田は家まで迎えに来て、ぼくを小さなグラウンドに引っ張っていく。〈やんちゃな〉ぼくが、全身で、全力でぶつかっていっても、彼はすべてを受け止めてくれる。今になってぼくは、彼の偉大さが分かる。彼の人間的な魅力が、ぼくをサッカーの虜にしたのだと。

 実は、ぼくのサッカー人生の中で、上田と関わったのは一年間しかない。中学に入学する前に、ぼくは〈三菱養和〉のサッカークラブに移ることになる。なぜ、三菱に移ることになったのか。それには、ぼくに対する母の想いがあった。〈やんちゃな〉ぼくが、ひとつのことに打ち込む姿が嬉しかったことと、上田が、泣いているぼくを家に送ってきた時に、「卓朗くんのサッカーの才能を今後も伸ばしてあげてください」と言われたことがきっかけだった。だから、強いチームと整った環境下でプレーさせたいと考えたようだ。

 そこで母は勇気ある行動に出る。当時高校サッカーでは最強だった帝京高校に連絡する。電話に出たのは、サッカー部監督の古沼貞雄だった。
「将来は帝京高校でサッカーをやらせたいのですが、そのために少年サッカークラブはどこに行けばいいでしょうか」と母は突然切り出す。その質問に対して、古沼が「三菱」と答えたことで、ぼくは〈三菱養和〉に行くことになった。

 ぼくが〈クラブシクス〉を離れる時にも、上田は、快く送り出してくれた。だから、その後に何か重要な出来事や試合があった日は、必ず彼に報告してきた。中学の時に選抜代表に選ばれた日や浦和レッズに入団してプロになれた日も。そして彼は、そのことを自分のことのように喜んでくれた。浦和でなかなか公式戦に出られないぼくに、「卓朗が公式戦に出ている姿が見たいな」といつも言ってくれる。でも上田は、ぼくが大宮に移籍してやっと公式戦に出られた2004年8月のJ2デビュー戦の姿を見ていない。いや、見ることができなかったのだ。上田は、2004年1月23日、食道がんのためにこの世からいなくなった。ぼくが彼に最後に会ったのは、2003年12月29日、病院のベッドの中だった。病気に侵されてやつれていても病魔と戦う彼の姿を目にして、病室を出たぼくは辛くて涙する。

 上田は、たとえ相手が子供であっても、その人の存在や発言を頭から否定することはなかった。一度たりともそんな光景を見たことがない。たぶんぼくが、相手がどんな人でも、「コミュニケーション」を優先させて理解し合おうと努めるのは、上田の影響が大きいのだ。

3.柳の木の下で立ち止まる

 新幹線が、高崎駅に到着する頃、姉からメールが入った。ぼくは、数ヶ月前に姉に会うために九州に出かけたことがあった。
子供の頃は、姉の前でもよく泣いた。

 家族でトランプをして、ぼくは自分が負けてしまうと、卓袱台の下に潜り込んで悔し涙を流した。そんな時に姉は、「卓朗はしょうがないね」と言って機嫌を取ってくれた。でも姉とは、一度だけ、大きな喧嘩をしたことがある。彼女が高校生でぼくが中学生だった時だ。姉は、学校でバスケット部に所属していた。なかなか試合に出られない彼女は、部活が終わってから家に帰って、自分の不遇さを父と母に訴えていた。ぼくは、その話を耳にして、姉にこんなふうに言った。

「レギュラーになれないのは、一生懸命練習しないからだよ。ちゃんとやってれば、試合に出られる。努力が足りないんだよ」
 このうかつな発言が、いつもは穏やかで優しい姉の怒りを買ってしまう。
「卓朗は、サッカーをやってすぐにレギュラーになれたから、そんなことを言うのよ。一生懸命にやっても試合に出られないことがあるの。自分は、いつもレギュラーだから、試合に出られないでいる人の気持ちが分からないのよ。もっとそうした人の気持ちを分かってあげないとダメ。あなただけで、試合をやれているんじゃないのよ」

 姉とぼくは、その後どれくらいの時間、口論したのか分からない。でも確かなことは、泣きながらお互いの意見を主張し合ったということだ。父は、ぼくらの様子を見て、お互いの話を窺い知って、「大切な話をしているから、徹底的にやり合った方がいい」と判断して仲裁に入らなかった、とその時に母に伝えたのだという。

 ぼくは、高校・大学・プロへとサッカー人生を重ねるに従って、姉の言った言葉を実感させられるようになる。中学以降のぼくのサッカー歴は、最初からレギュラーで試合に出ることはなかった。初めは控え選手からスタートして、やがてスタメンで出場するパターンになっていた。自分が控え選手になって初めて、「試合に出られないでいる人の気持ちが分からないのよ」と言った姉の気持ちがよく分かる。

 新幹線が到着駅に近づこうとする時、ぼくの頭を《ふと》よぎったものがあった。《戸山公園の柳の木の下に行こう。上田コーチのもとでサッカーを始めた、小さなピッチに行ってみよう》と。自分が人生の中で、立ち止まると思い出す〈大きな柳の木の下にある小さなピッチ〉に。

 数週間後に、ぼくは、戸山公園に行った。

 この場所には、いろんな思い出が詰っている。
 大人になってからのぼくは、年末の〈蹴り納め〉を毎年ここで行なっている。そして、正月の〈蹴り初め〉は、大学の同級生の小松和彦(元SCブレーバッハ)と木谷公亮(ベガルタ仙台)とぼくの三人でずっと続けていた。でも、小松がサッカーを辞めたことから、ぼくら三人での〈蹴り初め〉はやられなくなった。

 それでもここには、ぼくが、子供だった頃と同じ風景があった。子供たちが、ボールを蹴ってサッカーを楽しんでいる。ぼくは最初、サッカーのルールさえ知らなかった。だから、ルールを覚えるために、父に頼んで〈サッカーのルールブック〉を買って来てもらう。でも、小学4年のぼくには、〈ルールブック〉に書かれていた内容が理解できなかった。どうしてかと言えば、読めない〈漢字〉が多くて、〈漢字〉をとばして〈ひらがな〉と〈カタカナ〉の部分だけを読んでいたからだ。《さすがに、これではマズい》と思ったぼくは、その時から勉強にも力を入れるようになった。

 ひとりの少年が、チームの輪から離れて、スパイクシューズを磨いている。ぼくは、家の玄関先でよくスパイクの手入れをしていた。そんな時に後ろを振り向くと、いつも母が立っていて、ぼくの背中を眺めている。

 ぼくが、サッカーに打ち込めば打ち込むほど、サッカーは、いろいろなことを教えてくれた。それは、生きていくための〈希望〉であったり〈勇気〉であったりもした。けれどもサッカーは、人生と同じように〈いいことばかり〉をぼくに与えたのではない。上田明コーチとの〈永遠の別れ〉は、ぼくの人生の中で忘れることができない出来事であった。彼は、〈ぼく〉が、サッカーによって〈生かされる存在〉であると気づかせてくれた最初の人だ。

 残り三試合となったヴァンフォーレ甲府戦で、ぼくは、新潟戦と同じ過ちを犯してしまう。イエローカードを二枚もらって退場処分になる。その時ぼくは、サッカーをやって初めて〈絶望〉の本当の意味を味わった。もし上田コーチならば、ぼくの今の状況に対して、どんな言葉を与えてくれるのだろうか。

 ぼくは、「完璧な絶望などこの世にはない」と誰かに言って欲しかったのだ。

つづく

「第ニ回 ライバル」
「第一回 手紙」

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