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哲学的志向のフットボーラー、西村卓朗を巡る物語「第ニ回 ライバル」

2015.04.20

「ある者は他の者のために」
(エマニュエル・レヴィナス『神・死・時間』)


文●川本梅花 写真●重田 航

〔登場人物〕
ぼく…西村卓朗(Jリーグ大宮アルディージャ所属)
彼…波戸康宏(Jリーグ大宮アルディージャ所属)

1. 最初の対決と最初の会話

 1月のグアムは乾季の時期だ。しかしキャンプで訪れた時は、短くて激しいスコールが一日に三回あった。そうした天候の中、グアムキャンプ初日の練習が始まる。最初のレッスンは、選手が攻撃と守備に分かれて一対一の対決を行なった。

 ぼくは、波戸康宏の姿を目で追いかけた。

《守備側の6番目》と確認して、彼と対決するべく《攻撃側の6番目》の列に、周りには気づかれないように自然に振る舞って割り込んだ。ぼくたちが最初に対決する場面が、あと少しで訪れる。ぼくは、サッカー選手である西村卓朗を知らしめるために、自分の得意なドリブルを名刺代わりにしようと思っていた。だから《ドリブルで絶対に抜いてやる》と気合いを入れて、ボールを軽く右足で蹴り出した。彼は、腰を低くしてディフェンス態勢を取る。二人の距離が2メートルになって、ぼくは身体を左右に揺らせて彼の様子を窺う。やがてぼくらは至近距離になる。《落ち着いて》と呟いて、相手の出方を探って一度フェイントを入れてから、いっきに彼を置き去りにした。ぼくは、後ろを振り向かずにグアムの空を見上げる。真っ青だった空が、しだいに暗くなりスコールがやって来る気配がした。曇っていく空を感じながら、《これからが、本当の試練の時なんだ》と自分に言い聞かせていた。

 波戸と初めて言葉を交わしたのは、キャンプ出発前の志木トレーニングルームだった。ぼくは、合同練習の前にまず身体を暖める。だから、集合時間よりも早めに入って、個人トレーニングをする。ある日、いつものようにトレーニングルームの扉を開けた。そうしたらぼくよりも先にトレーニングをしていた選手がいる。《あっ、波戸だ》とすぐに気づく。でも、投げかける言葉が見つからない。気まずい空気を作るのも嫌だったので、ぼくは焦って言葉を発した。

「あ、西村卓朗です」
 と、ぎこちなく言う。
「知ってる、知ってるよ」
 彼は即答した。

 その日の会話は、たったそれだけだった。

 彼とは代理人が同じで、ぼくの性格やプレースタイルを事前に聞かされているはず。だから彼への第一声で、《西村卓朗です》と当たり前過ぎる挨拶をしたぼくは、《やってしまった……》と恥ずかしくなって、不自然そうに見える自分を落ち着かせようとCDを選んで音楽を流し、トレーニングルームに漂う重い空気を消そうとした。

 チームは、右SBの守備強化という理由で、二年間守り抜いて来たぼくのポジションに彼を補強した。同じポジションでライバル関係になったぼくたちは、トレーニングルームで無言の時間を過ごした。キャンプまでの二週間、ほぼ毎日、ぼくたちはその場所で顔を会わせた。ぼくは、浦和レッズに在籍していた頃、当時ライバルだった山田暢久と一度も会話をしたことがなかった。それは、ぼくの経験不足によるものだ。プロのサッカー選手になった自分に自信が持てず、相手に臆していたからである。でも、いまは明らかに違う。ぼくは、常時試合に出場するようになり、自分のプレースタイルも確立してきた。あの頃の、プロの世界を知らなかった自分とは異なるぼくがいる。無理にコミュニケーションを取る必要はないけれども、意識して彼との壁を作る必要もない。《自然に振る舞えば……。等身大のぼくが自然にいれば……》と思えるようになっていた。

 数日後、ぼくは、トレーニングルームで波戸に偶然話しかける機会を持った。彼は、お尻を球体に乗せてバランスボールを上手に操っている。

「それは、どうやってやるんですか?」
 ぼくは尋ねた。

 彼は、詳しくやり方を教えてくれる。その紳士的な態度に《ああ、優しい人なんだ》と思って、「波戸さんは、いろんなトレーニングを知ってますね」と言う。それがきっかけでぼくらは、お互いの知っているトレーニング方法を教え合うようになった。自然と、僕らのコミュニケーションは増えていく。

 ある日、彼は、怪我についてぼくに質問してきた。
「卓朗は、大きな怪我をしたことがあるの?」
 ぼくは少し考えてみた。
「怪我はありますけど、長期離脱したことはないです」
 と、答える。
「そうか」
 彼は呟く。
「俺は、現役Jリーガーの中で、一番怪我に悩まされた選手だと思う。全力でプレーすると、その後に怪我が必ずついてきた。でも俺の性格上、手を抜くプレーはできないから。特に、椎間板ヘルニアで半年以上も歩けなかった時は、一番辛かったな。俺がリハビリする姿を見た両親は、〈もういんじゃないか。十分やったよ。引退したら〉って泣きながら言ってきた。俺も真剣にサッカーを辞めようかと考えたこともある。でも、何て言うか……選手としてまだやり残したことがある気がして……。そうそう、怪我を直すためにさ、いろんな治療をやったよ。西洋医学や東洋医学。怪しい祈祷にまで頼ったなあ」
 と笑いながら話し終える。

 ぼくは、彼の話をもっと聞きたくなる。
「練習が終わったら、食事に行きませんか?」
 と、何気に誘ってみる。
「いいよ。行こうか」
 快い返事が返って来た。

2. 刺激を受けたライバルの言葉

 彼が、大宮に移籍するという噂は、シーズンが終わってからすぐに耳に入って来た。ぼくは、そのシーズンをはじめてフルで使ってもらったのだが、《練習しなければ追い越されてしまう》という焦りから、正月も返上してトレーニングを続ける。プレシーズンは、アシストを挙げて調子も良かった。けれども、まったく身体を休めていなかったツケが、後になってから回って来る。ケアさえしていれば、身体の疲れはすぐに戻るという過信が、ぼくにはあったのだろう。その結果、新しいシーズンが始まっても、身体から疲れが抜けずにベストコンディションに持っていけない日々が続いた。

 開幕試合の次の日に、JFLの高崎のチームと練習試合があった。その試合で、相手をドリブルで抜いた時に、敵の選手の残り足に引っかかって負傷してしまう。足がすごく腫れて、サブに入るまで一ヶ月を費やす。この時点で、波戸はピッチにいて、ぼくはベンチを暖めていた。でも、試合に出場できないことは、そんなに辛いことではなかった。浦和に在籍していた時は、4年近く一試合も公式戦に出してもらえない時期を経験していたからだ。その時のことを思えば、《挫ける要素など何もない》とはっきりと自分に言えた。ただ、自分のコンディションでプレーできないことや求めている動きの質が、頭の中でイメージする自分のコンディションから離れて行くことが辛かった。

 けれども、ぼくは、波戸と話すことで自分を見つめ直すことができた。

「この間、あるサッカーライターのインタビュー受けてさ、卓朗はどんな選手かと聞かれたんだ。〔サッカー選手の鏡だ〕と答えておいたよ」
 と、彼は笑って話す。

「なんですか、それ」
 ぼくは聞き返す。

「俺は」と言ってから言葉を選んで「チーム練習で一生懸命やらない奴は、プロとして認めない。個人練習をいくらやっているからと言って、チーム練習で手を抜く奴はダメだ。その点、卓朗は、チームに対して練習でも献身的だしね」

 ぼくは黙って彼の話に耳を傾ける。
「人間性とサッカーのレベルって比例すると思うんだ。サッカーであるレベルまでいく選手はいるけど、人間性が優れてないと、それ以上はサッカーのレベルも伸びないよね。対戦相手に絶対負けない気持ちを持って、プレーで表現する。チームが勝つために、どれだけチームに貢献できるか。だから、個人がどんな状況におかれてもチームに対して献身的に振る舞う卓朗は、〔サッカー選手の鏡だ〕って答えたんだよ」

「え、お世辞ですか」
 と、ぼくは言う。

「お世辞じゃないよ。思ったことを正直に話したまで。俺はほら、気持ちを隠せないから」

 ぼくと波戸は、ライバル関係にある。そういう立場にいるぼくの存在を、他者に肯定的に語る。彼の性格が、少しだけ窺い知れた。

 レストランで食事をしているぼくたちの会話が、トルシエ時代の日本代表の話題になった。フランス代表との親善試合で大敗した当時の日本代表は、次のスペイン戦に備えて守備強化の目的で波戸を遠征メンバーに選んだ。彼は、その期待に十分見合う活躍をする。日韓W杯が開催される直前まで欧州遠征に出向いていた代表は、最後の親善試合となったノルウェー戦まで波戸を帯同させた。

 彼は、当時を振り返りながらゆっくりと語り出す。
「ノルウェー戦が終わった後で、トルシエが〈この遠征に連れて来た選手は、98%、W杯メンバーに選ぶ〉と言ったんだ。代表メンバーは、普通なら事前に選手に知らせるんだけど、あの時は、テレビで発表を見てくれと言われた。だから、メンバー発表の日は、テレビの前にいた。発表が始まって、背番号2の所で俺の名前が呼ばれなかったらメンバー入りはないと思っていた。そうしたら、〈秋田〉の名前が呼ばれて……」

 過去を振り返って話す彼は、今でも悔しさがあるように思えた。
「98%選ぶって言って、俺は残りの2%かよって落ち込んでいたら、テレビで中田ヒデ(中田英寿)が質問に答えていて、〈メンバーで落ちたのは、俊輔だけじゃないから〉と言ってくれたんだ。ヒデのあの言葉を聞いて……なんか……少し救われた気になったよ。ヒデっていい奴だなって思った」
 と、彼は饒舌に話してくれた。

「俺は、いまでも代表入りは諦めていない。現役でいる限り全力でプレーして、とことんまで自分を追いつめて、サッカー選手として燃え尽きようと思っている。35歳までは、現役でサッカーをやるよ。代表でゴンさん(中山雅史)に会って、あの人、30歳過ぎてからもサッカーが上手くなっていた。だから、サッカーが上手くなるのには、限界がないって知ったんだ」

 ぼくは、彼のこの言葉を聞いていろいろと考えさせられた。いま目の前で話をしている波戸というライバルの出現。それによって、ぼくのポジションは失われつつある。経験や実績から見ても、彼の方がぼくよりも上にある。では、ぼくにできることは何があるのか。そうやって考えた時に、〔自然体〕という言葉がぼくの頭をかすめた。《自然に振る舞えば……。等身大のぼくが自然にいれば……》、決して臆することは何もない。《彼が限界を超えようとするならば、ぼくも全力でプレーして自分の限界を超えてやる》と心に誓った。

3. 〈負けず嫌いな一面〉と〈面倒みの良さ〉

 次のシーズンになって、日本人監督から外国人監督にバトンタッチされた。ぼくは再び右SBで起用され、波戸は左SBにコンバートされる。ライバル関係にあったぼくたちは、二人ともピッチに立つことになった。

 ぼくは、ある試合のことを忘れることができない。それは、波戸の〈負けず嫌いな一面〉と〈面倒みの良さ〉が窺い知れた出来事であったからだ。

 シーズンが始まってすぐのカップ戦。その試合は、終了前の逆転劇で敗れた。

 試合前日の練習から、波戸は、GKの江角浩司に「もっとはっきりと声を出して、指示をしないとダメだ」とコーチングの指導をしていた。波戸は、試合が始まっても江角に同じように指示を出す。江角の前に落ちたボールを、レアンドロがコーナーにクリアーした。その時に波戸は、江角に向かって「なんで、コーチングしないんだ」と声を上げた。「レアンドロがクリアーする前に、声を出して指示しないとダメだろう」と彼の声はますます大きくなる。江角がレアンドロにコーチングしていたなら、彼はクリアーしないでボールは江角にキャッチングされていた。そうすれば、試合終了間際に逆転弾となったコーナーキックを与えることはなかったかもしれない。

 試合が終わって、ロッカールームに選手が引き揚げる。
 波戸は長身の江角の前に立つ。
「なんで、声を出さないんだ。ちゃんとコーチングしないとダメだろう」
 江角は、無言でじっと波戸の言葉を聞く。
 誰かがその間に入って事態を静まらせることができないほど、緊迫した空気がロッカールームを覆う。

 後日ぼくは、波戸に真相を聞く。
「何があったんですか?」
「あれは……」
 と言って事情を説明し始める。
「江角は、GKの潜在能力がとても高いと思うんだ。でも、普段から性格がおとなしいと言うか。優しいんだよ。でも試合の時は、もっと気持ちを前に出さないと。特にGKは、チームの要だから」

「波戸さんは、普段から江角とは仲がいいですよね」
 ぼくは問いかける。
「ああ。相談とかいろいろされて、食事もよく一緒にするよ」
 と、彼は微笑んで答えた。

 波戸のプロ意識は、相当に高いと思う。高いレベルでサッカーをやりたい。チームを、少しでも上向きにしたい。そういう意識の表れが、ロッカールームでの怒りに繋がり、江角への叱咤激励になったのだろう。

 一週間後、遠征先に行くために、クラブハウスに選手たちが集合した。波戸は、「江角と一緒に羽田空港に行ってくるよ」と言ってその場を後にした。ぼくは、前の試合の累積で遠征には参加できなかった。クラブハウスに残されたぼくは、これから待ち受ける出来事をまだ知ることはなかった。

つづく

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