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【インタビュー】瀬戸貴幸「明日の扉を開くために今日を生きる」

2015.02.17

サッカーノンフィクション 言葉のパス ~ぼくのサッカーライフ~ 第2回

瀬戸貴幸

瀬戸貴幸(FCアストラ・プロイェシュティ)
「明日の扉を開くために今日を生きる」

チームメイトと殴り合い寸前のケンカをする

「前半は、あいつがいたからチームがうまくいかなかったんだよ」と瀬戸貴幸に向かってチームメイトの1人が怒鳴っている声が聞こえた。

 2007年の6月、瀬戸は、トライアウトを受けるためにルーマニアに渡る。

 クラブは、3部リーグのCSM・FCプロイェシュティだった。トライアウトに合格した彼は、開幕戦でいきなりスタメン起用されてチームが1対0で勝つ。チームを勝利に導いたのは、彼のリーグ戦初得点である。しかし、続く2試合目以降から数試合はコンディション調整に失敗して得点から遠ざかっていた。

 そんな中で、チーム生え抜きの32才のベテラン選手であるロミッカが、試合後にロッカールームで着替えをする瀬戸に、わざと聞こえるように嫌みを言い出した。

 瀬戸は「彼が僕のことを言ってるんだな」とすぐに気づく。しかし、あえて聞こえない素振りをした。それでも瀬戸に対するロミッカの非難は止まなかった。

「まったく、日本人なんか入れるからだよ。あいつを早くスタメンから外せよ」

 ロミッカは誰に言うわけではなく、一人でがなり立てた。

「ルーマニアでの生活もはじまったばかりだったこともあって、コンディションが整わなかったりしたんです。だからまだ好調と不調の波もあって。リーグ戦の開幕試合でゴールを決めてから数試合、点が取れなくなったんです。ポジションもトップ下から左のサイドハーフに代えられた。

ある試合で0対0の中、前半途中で代えられてしまって。僕がベンチに下がってからチームが得点を入れて2対0で試合には勝った。試合後にロミッカが、『前半あいつがいたからチームがうまくいかなかった』と僕に聞こえるように言っていたんです。聞こえてはいたけど無視をしたんです」

 そして、試合の次の日の練習中にある事件が起る。

 ミニゲームの最中に、瀬戸は、嫌みを言っていたロミッカの足を狙って削りに行った。もちろん、瀬戸の行為は褒められたものではない。しかし、たった1人での欧州生活での孤独と、ルーマニアサッカーになかなか慣れられない自分への苛立がつのっていたのは事実だった。

 プレーに怒ったロミッカは「この野郎」と言って、今度は逆に瀬戸に思いっきり足元を狙ってスライディングを仕かけてくる。転倒した瀬戸もロミッカのラフプレーに怒りが込み上げてくる。2人は、お互いの顔を近づけてつかみ合いになった。2人が小競り合いをしていると、慌ててチームメイトとアシスタントコーチが止めに入る。その場には、監督が不在だったので事態は穏便にすまされた。

「ロミッカと揉めた翌日の練習で、彼はルーマニア語でブツブツ何か言いながらプレーしていたので、僕は日本語で『アホか』と文句を言ったりしたんです。周りの選手は、ルーマニア語と日本語の掛け合いに『お前らなにやってるの!?』みたいな感じになって笑っている選手も出てきたんですよ。まあ、そのときは僕も彼も互いに謝ることはしませんでした。でもそれ以来、なんだか彼に親近感をもつようになった。彼も僕が感じたような親しみをもったみたいなんです」

 数日後にロミッカが瀬戸に話しかけてくる。

「お前、いつ点とるんだ?」

「今度の試合で点をとるよ」

 瀬戸が覚えたてのつたないルーマニア語で言い返す。

「ははは」と笑いながらロミッカは瀬戸に人差し指を出して左右に振る。

「今週は試合ないぞ」と言って瀬戸の肩をポーンと軽く叩いた。

 試合に使われ続けていた瀬戸だったが、プレーにはどこかしっくりといかないままでいた。そんなある日、試合の翌日の練習中に、スポーツディレクター(クラブの強化部長)が瀬戸に歩み寄ってくる。

「バックパスだったら俺でもできるよ」

 彼のひと言に瀬戸は「あっ」と思う。

「ルーマニアに行く前は、テクニシャンが多くてサッカーが上手い選手が集まっていると思ったんですけど、こっちに来てみたら、まったく違うというのに気づいたんです。ルーマニアのサッカーは、バックパスを嫌うんですよ。相手にプレッシャーをかけられても簡単にボールを失わない。

選手間のあたりが激しいし厳しい。僕はその試合でCHをやっていたんですが、前にボールを出せないときに後ろにいるディフェンダーにボールを下げてもう一度組み立て直そうとしたんです。相手がプレスに来たから後ろにボールを下げるというパスを無意識にやっていた。それが消極的に見えたんでしょうし、僕もミスを恐れていた部分もあった。

だから、スポーツディレクターに『バックパスだったら俺でもできるよ』と言われて、〈もっとチャレンジしなければならない。ミスをしてもいいから前に前にというプレーをしないと。それができなければ、この国ではチャンスがなくなるな〉と思ったんです」と瀬戸は振り返る。

 スポーツディレクターの何気ないひと言からヒントを得た瀬戸は、その2007-2008シーズンを33試合出場して7得点を挙げ、チームの2部昇格に貢献する。2008-2009シーズンで、瀬戸のポジションも本格的に中盤を仕切るCHになった。リーグ戦では27試合出場して1得点をとり、チームを牽引して1部昇格を果たす。

 そして、2009-2010年では、34試合に出て3得点。続く2010-2011シーズンは、33試合で3得点を入れて、押しも押されぬチームの中心選手に成長した。

 成績の数字の羅列だけを見れば、順調に一歩一歩階段を登っていったように思える。しかし実際は、ルーマニア語の習得からはじまって、東欧の生活習慣や日本とのサッカーの差異などに苦しみ、チームに加入して最初のころは何度かレギュラーを外されて、サテライトに行かされたこともあった。そうしたさまざまな苦難を、瀬戸はどのように乗り越えてきたのだろうか?

畑のようなグラウンドに連れていかれる

 瀬戸の兄は、高校を卒業してブラジルにサッカー修行に行ったことがあった。そうした兄の行動に影響されて、瀬戸も愛知県立熱田高等学校を卒業してからブラジルに渡る。そのときに兄の知人の日本人代理人と知り合う。ルーマニアのクラブとのプロ契約という話は、その代理人からのオファーだった。

 ルーマニアに足を踏み入れて最初に目にしたのは、畑が一面に広がっている中に、ポツンとサッカースタジアムが建設されている風景だった。

「畑というか……畑そのものなんですが、畑しかない場所の真ん中にスタジアムを作るって『凄いことだな』と思ったのが印象にあります。パッと見て『なにこれ』という感じですよね。プロイェシュティのトライアウトには、10日間で総数50人くらいいました。ほとんどがルーマニア人ですよ。日本人は僕の他に2人いました。はじめの1週間は、ミニゲームをやったりフィジカルの強さを見られたりしました。

次に、山沿いにある場所にキャンプに行きました。ミニゲームではとにかく点をとることを意識してプレーしたんです。最終的に20人が残って、日本人は僕だけになりました。キャンプが終わって、1週間後にカップ戦を控えていて、『もうそろそろ契約があってもいいんじゃないか』と思ってスポーツディレクターに聞いたら、あっさり『契約するよ』と言われて、合否の結果に緊張して過ごしていたので、少し拍子抜けしたんですよね」

 2008年に2部リーグに昇格したチームの中で、調子を崩して試合に出られなかったときがあった。コンディション調整で苦しむ瀬戸に、チームは「サテライト行き」を命じる。

「サテライトと言っても、16・17歳の子で構成されているチームなんです。日本でいうところの地域リーグレベルですね。僕以外にルーマニア人が2人、サテライトに送られた。ボロボロのマイクロバスに乗せられて着いた会場は、ボコボコの畑だったんですよ。畑の上にゴールマウスが置かれているだけ。グラウンドと呼ばれるところのすぐ外に牛が放し飼いになっている。

だから境界がないので、牛の糞がグラウンドに転がっている状態。一緒に来た2人は『こんなところでやってられるか!』と言って手を抜いてプレーしていたんです。僕は、彼らの姿勢をみて『自分はここでもしっかりやらなきゃ』と思って、とにかくがむしゃらにプレーしたんです。『絶対こんなところで終われない。自分に負けていられない』と一生懸命やった記憶があります。

そうしたら、サテライトの監督が『あいつはあの環境でもしっかりやっていたぞ』とトップの監督に伝えたみたいなんです。ちょうどカップ戦を控えていて、その前の試合でキャプテンだった選手が怪我をして長期離脱することになった。たまたま彼は、僕と同じポジションで、彼の代役で試合に使ってもらったんですが、それから試合に出られるようになったんですよね」

 ルーマニアのプロリーグは3つある。3部リーグは18チームが所属して6グループにわかれる。各グループの1位が2部に自動昇格できる。2位が、2部リーグの下位チームと入れ替え戦を行う。2部リーグは18チームがあって2グループになる。そして1部リーグは18チームで構成されていた。

 当時3部リーグにいたCSM・FCプロイェシュティでプレーすることになった瀬戸は、リーグ戦前に開催されたカップ戦で、いきなりスタメン出場した。試合直前にスタメンが発表されるのだが、試合前日のフォーメーション練習の中でメンバーになっていたので、ある程度は予測できたし心の準備もなされている。彼のポジションはフォワードだった。彼はそこでチーム加入後初得点を決めることになる。

 3部リーグの選手の給料は日本円にして月給約3万円からスタートした。生活そのものは、寮に住んでいて食事がついていたので、なんとかやりくりできた。2部リーグに昇格したときには、3倍強の約10万。1部リーグでは約40万に上がった。

 2010年サウジアラビアの名門クラブのアル・ナスルから巨額の移籍金を積まれたオファーを受ける。「新聞で知ったんですが、ディナモ・ブカレスト(ルーマニア1部リーグの強豪クラブ)が獲得するとか、サウジアラビアからのオファーとか、びっくりすることが続きましたね」と笑いながら話す。

 このようにルーマニア1部リーグのFCアストラ・プロイェシュティ(クラブはリーグ昇格ごとに名称を一部変更している)での活躍が注目されるようになった彼の、サッカー選手として原点と言えるものは、どこで養われたのであろうか。

ブラジルへの挑戦

 瀬戸がサッカーをはじめたのは幼稚園のときだった。実家の近くのサッカー少年団アクアFCに2才年上の兄が入っていたことがきっかけになっている。

「兄に影響されてサッカーをはじめました。小学校の部活では野球をやって、野球とサッカーを並行してやっていましたね」

 本格的にサッカーに打ち込んだのは、小学校5年生になって名古屋FCに加入してからだった。最初のポジションはCBで、愛知県のトレセンに選ばれたことがある。小学校6年生になって、右サイドハーフやトップ下にコンバートされる。

「クラブの監督の判断で、CBやスイーパーをやらされました。僕自身もそのときは、前目のポジションでやりたいというのはなかった。そのころから周りのみんなは身長が大きくなっていたんですが、僕はあまり大きくならずに、中学校入学のときでも149cmしかなかったんです」と子ども時代を語る。

 名古屋FCは、全国的に名前が知られるクラブだった。高円宮杯で全国3位になったり、クラブユース選手権でも愛知県1位で通過していた。しかし、中学時代の瀬戸は、身長が低かったこともあってサブメンバーだった。
 
 高校進学は、両親には中京高等学校を勧められる。

「中京(高校)の監督が〈怖い〉とか〈スパルタ〉という噂を耳にしていたので、『僕には合わないな』と思って、公立高校で一番強いと言われていた熱田高校に決めました」。部員が100人くらいのサッカー部でも、「テクニックは名古屋FCでもうまい部類だったので、『やっていける』という自信があったんです。でも、高校に入っても身長が160cmなかったので、フィジカル的にかなわなかったものがありました」と述べる。

 高校2年生になってもBチームメンバーという状況は変わらなかった。瀬戸に転機が訪れたのは、高校2年の夏を前にしたときだった。急激に身長が伸びて180cm近くになる。

「体が大きくなって、自分でも驚いたんですが、ボールを奪われなくなったんです。上の視界から相手を見下げるというか。それまでは背が低いから、下から上を見上げてプレーしていたんです。周りを見る視野も広くなりました。前にボールが出しやすくなって、ボールをキープして、サイドのタッチラインに張ってからドリブルで突っかけたり、味方にパスを出したり、無理なくできるようになった。

もともと僕、足が長いのでよけいにボールを相手に奪われなくなったんです。世界が変わったと思いました。そうしたら、高校2年の夏の選手権(全国サッカー高校選手権大会)の県予選のときにレギュラーに抜擢されてトップ下で出場できました。高校3年のとき、チームは2回戦で(名古屋市立)名東高校に2対0で簡単に負けてしまったんです。みんな悔しがって泣いていたんですが、僕は、『これからもサッカー人生が続いていくんだ』と思って感傷的にはならなかった」

「これからもサッカー人生が続く」と思った瀬戸は、高校を卒業してブラジルにサッカー留学する決心をする。それは、兄が先にブラジルに行っていて、毎月手紙が送られてくる中に、「ブラジルはサッカーのうまい人が本当に多い。町にいるおじさんでもサッカーが上手なんだよ。食事はたいへんだ。食べ物がおいしくない。いろいろと厳しい生活なんだけど、なんとやっている。お前も、高校を卒業したらブラジルに来ないか?」という文面が書かれてあった。

 大学進学に関しては、「母は、浜松大学や静岡産業大学に行ってサッカーを続けてほしかったようで、そのときに少しだけ大学進学を考えたんですが」と話す。しかし、子どものころから兄の背中を追いかけてサッカーをやってきた瀬戸にとって、ブラジルへの挑戦は必然的なことだったのかもしれない。

魂の叫びが聞こえてくる

 2004年にブラジルに渡った瀬戸は、1年半という時間を過ごすことになる。彼と入れ替わりで、兄は日本に帰国する。そして瀬戸は、アヴェイFC(サンタカタリーナ州)やコリスチャンス(サンパウロ州)などいくつかのクラブの練習生となる。

「ブラジルに行って最初にクラブ見学をさせてもらって、練習を見たら『こいつらあんまり上手くないんじゃないか』と思ったんです。そのクラブのグラウンドはデコボコでしたが、実際に彼らと一緒にプレーしたら、コンディションが悪いピッチの上でもボール扱いがうまくて驚いた。はじめにお世話になったクラブには11カ月いました。

契約の面では、プロ契約が勝ち取れずに練習参加という形だったんです。仕送りを両親からしてもらっていたのですが、物価が安くて月1万円あれば生活できました。寮生活をさせてもらっていて、3食と夜食がついていました。だから後は、サッカーをするだけの環境でした」

 最初に練習生になったチームがクリスマス休暇に入ったので、代理人に相談して正月以降でも練習参加できるチームを探してもらう。そこで、練習生となったのが名門コリンチャンスだった。ちょうど、のちにアルゼンチン代表になったカルロス・テベス(マンチェスターC)らとともに2カ月を過ごす。さすがにブラジルのトップチームのクラブは環境がよく、グラウンドの設備面や食事面も充実していた。トップチームの練習に2回ほど参加することができた。しかし瀬戸は、自分の実力と周りの選手のレベルの違いに愕然として自信を失う日々を送っていた。

「練習に参加して、ボールは回ってくるんですけど、僕のところにはやってこない。やっとボールをもらってもパスミスをしたり、ドリブルして突っかけても止められたりしたら、まったくボールがこなくなりました。なんにもできなかった。コリンチャンスのときは、みんながうまくて、『ああ、これではダメだ』と落ち込んだときもありました」

 自信を喪失しそうな瀬戸の気持ちを和らげたのは、ブラジルの市井の人々だった。

 アヴェイFCでは、アパートに選手と2人で住んでいた。スタジアムまで行く道の途中にビーチサッカー場があった。そこではアパートの近所の年配者や若者たちが裸足でサッカーをやっていた。ある日、瀬戸は彼らに誘われてビーチサッカーをやることにした。試合中に、その町で一番うまいと言われる若者と1対1になる場面があった。瀬戸は、股抜きをしてその若者を置き去りにした。ドリブルで抜いていく瀬戸のプレーを見ていた観客たちが、いっせいに「フウー」と言って奇声を上げて瀬戸のプレーを称讃した。「なんだか自分のプレーが認められた感じがして、『もう少し頑張ってみようか』と思えました」と語る。

 ブラジルの公用語であるポルトガル語は、毎日地道に3時間ほど勉強をした。半年経つと日常会話では苦労しなくなる。言葉が話せるようになると、チームメイトから彼らの家に招かれるようになるほど、ブラジルの地にとけ込んでいった。

 瀬戸は、もう少しチャレンジしたかったのだが、滞在許可書の期限が切れるので、「いいきっかけかもしれない」と考えて日本に戻ることにした。帰国後は、実家の近くのスーパーでアルバイトをする。品物の出し入れなどをする仕事だった。ブラジルから先に戻っていた兄は、父とともに家業を手伝うことになった。兄からは「コンディションが落ちないうちに、どこかトライアウトに行ってみれば」と助言されたが、探してもなかなか見つからない。ボールを蹴る感覚を失いたくないので、フットサルのチームである愛知ニューウェーブスや名古屋市リーグのOSFCに籍を置いた。

 バイトが終わって、ひとりで黙々と練習する。実家の前の道路で日が暮れてからジョギングや腹筋をやった。「近所の人は、『あいつなにやってんの?』という感じで見ていたと思うんです。周りからも『就職したほうがいいんじゃなか?』とか『もうプロサッカー選手になるなんて諦めたら?』と言う人もいたんです」。「そろそろここが潮時かな」とどこか自信なさげに振る舞う瀬戸の姿を見て、後に妻となる恋人の智美が言葉をかける。

「自分の好きなこと以外のことをしても、続けていけないんじゃないの?」

「そうだよな」と思った瀬戸にやってきたのが、日本人代理人からの「ルーマニアのトライアウトを受けてみないか?」という朗報だった。

 瀬戸は、2014-2015シーズンを迎えて、ルーマニアでのクラブ生活も8年目に入る。キャプテンマークを巻いた頼れる存在であったほどに、チームには必要不可欠な選手となった。

 そんな彼に、「今後の目標は?」と尋ねると、「サッカーがメジャーな国に移籍してCL(チャンピオンズリーグ)やEL(ヨーロッパリーグ)に出場する。そして、W杯で日本代表に呼ばれることです」と高らかに語る彼の言葉には、「必ずかなえてみせる」という熱い魂の叫びを感じずにはいられない。

 そしてついに、2014年10月2日、瀬戸は、ELの1次リーグD組で対戦したザルツブルクとの一戦でスタメン出場する。彼は、前半15分に右足からのミドルシュートで先制点を決めた。

 瀬戸は、次の目標である日本代表への確かな足跡を印した。

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