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ジーコ「わずか20年でこれほど急成長したリーグは他国にはないと断言できる」

2013.09.03

Jリーグサッカーキング 10月号 掲載]
Jリーグの発展に大きく貢献し、まさに「伝道師」となったジーコ。1991年に住友金属で現役復帰し、鹿島アントラーズと日本サッカー界に「プロ意識」を植えつけてくれた彼の目に、Jリーグが歩んできた20年間はどのように映っているのだろうか。日本は、独自にサッカーの発展を模索してきたことに自信を持っていい。
ジーコ
インタビュー・文=増島みどり 写真=兼子愼一郎

 首都ブラジリアの丘にある静かなホテルに到着すると、ジーコは待ち合わせよりも10分早く車寄せで待っていた。コンフェデレーションズカップの取材中、「よく来たね」とばかりに大きく両手を広げ笑顔で歩き出したが、少し足を引きずっている。「先週のサッカーで軽く肉離れをしたんだ」と太ももをさすりながら、「サッカーハ、アブナイネ、キケンデス!」と日本語で笑った。

 数年前から始めた「ジーコ10」というジュニア世代への、学業を含めた強化プログラムの拡大に国内を飛び回り、自らのテレビ番組を持ち、ワールドカップに向け企業への講演活動を行うなど忙しい毎日を送る。もちろん、5人の孫の世話も。

 91年、住友金属(住金)に初来日して以来、もう数えきれないほど再会し、5月にもJリーグ20周年記念パーティーで取材をしたばかりだ。しかし「初めて」ブラジル国内で会う姿は、これまでとは大きく異なって見えた。

 スポーツメーカーのアドバイザーとして母国でのコンフェデレーションズカップに関わった「セレソン(ブラジル代表)の顔」ともいえる人物には、スポンサーが手配したガードマン2人がついていた。私たちを出迎えようと一人で歩き出した時、「大丈夫だから少し後ろにいて」と、彼らをスマートに制止するジーコの姿が見えた。

 ホテルの玄関で立ち話をしているわずか数分で、周囲には50人を超えるファンが「ジーコじゃないか!」と、声を上げながら小走りで集まってくる。パニックを恐れるガードマンにもう一度、「気にならないから」と過剰な警備をしないよう促し、携帯電話をかざして撮影しようとするファンにはごく自然に「今、日本からの取材を受けるから少し待ってくれ」と言った。何かコメントを聞き出そうとするジャーナリストたちも、レコーダー片手に歩いて来る。それでも「日本の取材があるから少し待ってくれ」という言葉に誰一人不満など言わず、邪魔もせず、距離を置いて待つ。彼が、「ジャポネ」と口にする特別な背景、日本人への思い、それらが王国においてさえ認知されている証なのだろう。

 サッカー王国でこれほどの敬意と人気を集める様子を目の前にしながら、20年も前、まだ何も始まっていない未知のプロリーグを選んだ事実に今さらながら驚かされる。富も名声もすでに十分過ぎるほど手にしていた、世界でも最も知られた伝説のフットボーラーが、土のグラウンドに、ロッカーもシャワーもない実業団チームでのプレーを選んだのは何故なのか。何度も聞いた答えのはずだが、20年が経過した今、その決断をあの当時より、一層重く感じる。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

――Jリーグの20年は、ジーコにとって早いものだったのでしょうか。

ジーコ とんでもない! 20年前にハットトリックを決めた私が、この20年で5人の孫を持つおじいちゃんになったんだ。20年が早いはずはないよ。でもJリーグについては本当に早かったと感じている。私が来日したのは91年なので、もう22年たったことになるね。改めて、わずか20年でこれほど急成長したサッカーリーグというものは他国にはないと断言できる。プロリーグ誕生そのもの以上に、その後の急激な進化について、選手、関係者、ファンにお祝いを言いたい。

――立ち上がりの時代にボランティアを務めた方々に伺ったお話ですが、当時は実業団リーグだったJSL(日本サッカーリーグ)の1部と2部を行き来するようなチームにジーコが入るという話が伝わった後、サッカーをご存知ない年配の皆さんの間では「どうやら、ジー子さん、という有名な人が来るらしい」とか、会社の工場内では「事故が起きたみたいだ」とか、こんな話が伝わったのは嘘ではなかったそうですね。世界的なサッカー選手と、人口6万人ほどの地方都市、それも住友金属と鹿島神宮が有名な町の取り合わせは、それほどミスマッチだった。

ジーコ 鹿島に来る10年前、フラメンゴのメンバーとしてトヨタカップ(81年、リヴァプールに勝利)に来ており、美しい町や運営組織の細かさ、日本人の穏やかで温かい心使いといった人柄にはとても好感を抱いていたことは間違いない。ブラジルには日系人も多いので親しみもあった。当時は引退しており、国でスポーツ大臣の仕事に就いていたが、それでもイタリアのクラブ2つと国内のクラブからも、ゼネラルマネージャー就任の要請や、特別コーチといったオファーは受けていたんだ。その中の一つに、ずいぶんユニークなオファーがあった。それが、93年から始まるプロリーグに参加を表明した住友金属と鹿島からのものだったんだ。日本のサッカーの立ち上げに力を貸してほしい、サッカーでカシマの町おこしを助けてほしいといった内容で、とても魅力を感じたのが最初だった。他の国の、歴史あるクラブからそういう要望はないからね。

――今思えば、本当に日本サッカーを立ち上げ、町おこしが叶っていますね。

ジーコ 実業団の2部には、プロと交わす契約書どころか、それが何か、どう作成すればいいのかノウハウもなかったので、当初はかなり戸惑ったことも多かった。私たちプロ選手は契約で生きてきたわけだから。選手としてはとても充実した現役時代を送り、政治の世界も少し経験した。私はいつでも、自分にとってこれがチャレンジになるかどうかを選択の最大の動機にしてきたし、日本に行く際、サッカーで経験したすべてを日本に伝えたい、サッカー途上の新しい国で、新しい歴史を作るんだ、とエネルギーに満ちていた。

――すでによく言われてきた話だと思いますが、いざ来てみてビックリ!の連続ではありませんでしたか?

ジーコ ハハハ、もう思い出せないほど驚くことばかりだったよ。しかし一番は、何よりもプロ意識の欠如、というか、それが存在しなかったこと。当時の監督だったスズキ(鈴木満=現取締役強化部長)には、本当によく怒った。スパイクの手入れから食事、菓子なんて食べるな、とそんな細かい話までね。休息、プロとしての振る舞い、スポンサーやファンとの付き合い方……数えきれない注意を、彼も選手も真剣に受け止めてくれた。だからJ開幕の年、大方の予想を覆して優勝したんだ。ゼロから立ち上げたクラブが初のプロリーグで最初のステージチャンピオンになった。私はJリーグに、鹿島に、ゲストとして招かれ、お膳立てされた中でプレーをしたのではない。最も苦しい時代を仲間と、地域の皆さんと一緒に戦って勝利を手にしたんだ。それが、私の生涯変わらぬ誇りだ。

――当時、電車で通勤されていたんですね。

ジーコ 駅のベンチでよくいろいろと考えていたことを思い出す。自分で道具を手入れし、ロッカーを片づけたこともある。ピッチで練習の準備をし、紅白戦のラインズマンをしながらオフサイドを教えたこともある。暗中模索で一日が終わると、本当にプロで成功するという目標に近づいているんだろうかと不安になることもあったが、私を支えたのは選手、スタッフの類まれな向上心と勤勉さ、そして地元の皆さんの温かさだった。駅のベンチに座っていると、サインや写真を求められるより、「頑張ってください」、「鹿島をよろしくお願いします」と頭を下げられたものだった。選手だけでも会社だけでもない。町中が協力して何か新しいものを生み出そうとするあの雰囲気が、自分をずっと支えていたんだ。本当に楽しかった。

――Jリーグ20年のベストゴールは、レオナルドが95年の横浜フリューゲルス戦で決めたゴールとなりました。

ジーコ エッ? 私の開幕戦ハットトリックではないのかい? レオナルドを誘ったのは私だというのに……。私のゴールは9位? まぁいいだろう。冗談はさておいて、ベストゴールには同意するよ。

――ジーコが代表監督の時代に伺った話ですが、あのレオナルドのゴールは、Jリーグの立場を変える転機にもなったそうですね。

ジーコ 重要なテーマだ。それまでJリーグは、海外でピークを過ぎたスター選手を好条件で獲得する、そういうイメージを持たれていた。しかし、セレソンを担う若いレオナルド、ジョルジーニョといったブラジル人選手が鹿島でプレーをし、あのようなパフォーマンスをすることで、映像や話題がヨーロッパや南米にインパクトを持って伝えられるようになったんだ。実際にあのゴール後、レオナルドやジョルジーニョにはいくつかの移籍話があった。レオにはついにパリ・サンジェルマンからオファーが届いたが、彼はできれば鹿島でプレーを続けたいと悩んでいた。しかし、私は彼自身のために大きなチャンスであり、「鹿島アントラーズ出身」という肩書きがクラブのためにも、Jリーグのためにもなる、と背中を押した。あの頃から、世界におけるJリーグの存在感が変わっていたように思う。

――鹿島は現在Jリーグで歴代最多のタイトル(リーグ戦、ヤマザキナビスコカップ、天皇杯を合わせて計16冠)を保持するトップクラブです。

ジーコ Jリーグがスタートする当初、クラブの土台を作る段階から、選手だけではなくフロント、チーム運営の中にもプロ意識が徹底していることは大きいかもしれない。獲得すべき選手についても、技術を評価するだけではない。真面目で向上心があって、チームのために最後まで全力で戦うことのできる人間か見ていると思う。現時点だけのプレーの上手さだけに目を向けているわけではないはずだ。鈴木を始め、クラブ関係者の功績だ。鹿島に限らず、Jリーグがここまで急激に成長を続けてきた最大の理由は、育成システムも大きい。J発足時から、育成組織を持つことを義務づけ、そこを大事にしてきた。ブラジル、スペイン、フランス、ドイツ、多くの国の良い点を吸収し、学びながら発展している。

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