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置かれた環境で悩むすべての人へ 干されてもがき、信念を貫いた元日本代表の言葉

2013.07.10

[サムライサッカーキング 7月号掲載]

2002年日韓W杯。当時赤いモヒカン頭で一躍注目を集め、日本の中盤に君臨した戸田和幸は、今、シンガポールでプレーしている。日韓W杯後、トッテナム(イングランド)をはじめ国内外のクラブを渡り歩き、2012シーズンは地元でもあるFC町田ゼルビアに所属した。しかし、そこで待ち受けていたのは、想像を絶するような、苦しい一年だった。「確執」と呼べるほどフェアなものではない。しかしそこから目を逸らさず、真正面から自分と向き合った。あの時胸に去来したものとは。そして、新天地シンガポールで見い出した希望とは──。
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インタビュー・文 = 岩本義弘
写真 = 足立雅史

冷遇された中でも腐らずに過ごした一年

──まずは、シンガポールのウォリアーズFCに移籍することになった経緯ということで、昨シーズンのFC町田ゼルビア所属時のお話からお聞きしたいと思います。町田は戸田選手の地元でもあり、ここをキャリアの最後のチームにしようという意気込みで移籍したわけですよね。
  
戸田 それぐらいの気持ちでやると決めていました。自分を育ててもらったクラブのトップチームですからね。移籍以前はケガで苦しんでいましたが、町田のグラウンドは人工芝だったものの、自分でも驚くぐらいイメージどおりにプレーできました。
 
──ところが(オズワルド)アルディレス監督の下、ほとんど出場機会が与えられることはありませんでした。
 
戸田 そうですね。ただ、そういう形になって、なおかつJFLに降格してしまった時も、逆に今こそ僕がやらなくてはいけないのかな、とも思っていました。出場機会が与えられない一年を過ごしても、自分がやらなくてはいけないという気持ちになりましたし、昨年10月の時点で既に、シンガポールからの話もあったんです。しかし町田のことを考えるとすぐに返事はできなかった。単純にオファーをもらって契約しただけのチームなら、そこまで頑張れたかも分からないですし、すぐに退団していたかもしれません。そう考えると、自分の地元のクラブだということは大きかったです。
  
──出場機会がない中で、想像を絶するような葛藤があったと思います。しかし、戸田選手はシーズンを終えるまで、契約が切れるまで、それを表に出すことはありませんでした。
 
戸田 出せなかったですね。最後までチームの助けになりたいと思っていましたし、明らかにチームに足りないものがあって、僕にはそれが見えていました。でも、結局、あのような形で終わってしまいました。言い方は正しいか分からないですが、僕はサッカーだけで生きてきて、この世界も長いです。最初に入ったチーム(清水エスパルス)が素晴らしくて、プロとは何たるかをすべて教えてもらい、成功体験もたくさんありました。その後はそうではない体験もたくさんあり、自分の中に多くの引き出しができました。「こういうふうになるとチームはこうなる」とか、勝つチームには勝つチームなりの条件があり、勝てないチームにも理由があります。それらを照らし合わせると、昨シーズンの町田はいろいろな意味で難しかったです。だから僕がいる意味がある、という話をされて町田に行ったというのもありました。
 
──戸田選手が契約した後にアルディレス監督が来た、という順番の違いも大きく影響したと感じます。通常ならば、監督を決めてから編成をするものですが、昨シーズンの町田はそうではなかった。
 
戸田 決まらなかったんでしょうね。でも、物事は見方によって全然異なり、そうであったとしても、昨シーズン一年間プレーしたからこそ今があります。先に監督が決まっていて、僕を必要とされていなかったら、僕のキャリアはそこで終わっていたかもしれないですし。苦しい一年であっても、自分なりに目標を立てました。もちろん、アルディレス監督が来るという時点で、相当厳しいとは思っていました。実際に、キャンプ中でも1分も出番をもらえず、キャンプが終わった段階で、事実上の構想外だと言われていますから。でも、僕はチームに迷惑をかけたくありませんでした。ですから毎日の練習では、違う自分を演じてでもネガティブな態度は出さないように心掛けていました。そういう意味では、選手としての能力とは別かもしれませんが、精神的な部分ではかなり鍛えられたかもしれません。
 


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ここでやめたら子供に説明できない

──言葉で聞くと一言ですが、それを1シーズン、プロサッカー選手が続けることは、本当に苦しいことだと想像します。
 
戸田 自分の周りでも、こんなケースは聞いたことがないですからね(苦笑)。監督と衝突して、途中で退団するということはもちろんありますし、僕もその時点では途中で出る、というふうに言われていたんですよ。
 
──それはフロントからですか?
 
戸田 監督からです。2月のキャンプ終了時に構想外と言われた時に、「このままやっていてもお互いのためにならないから、将来のことを考えろ」と。
 
──つまり「他のチームに移籍しろ」ということですね。
 
戸田 そうです。「絶対に試合では起用しない」と言われ、ベンチにも入れられないと言われました。でも、ここに残って戦うと自分で決めた以上は、チームの迷惑になってはいけません。もちろん多少は、例えば駐車場からロッカールームまで歩いていく時に気が重いとか、そういうのはありましたが、投げてしまったり、荒れてしまうことはなかったと思っています。
 
──やっていくうちに、苦しさは薄まるものですか?
 
戸田 いや、慣れないですよ。客観的に見た他の選手のパフォーマンスと、主観的に見た自分のパフォーマンスは違うかもしれませんが、自分のパフォーマンスが、練習や練習試合で良いと感じれば感じるほど、ストレスが溜まるんです。練習で明らかに良いプレーを見せていても、絶対にベンチには入れない。やればやるほど、苦しくなりました。
 
──ご自身のブログにも書かれていましたが、そこで自分を支え続けていたものは、「自分の選んだ道を後悔したくない」という思いなのでしょうか?
 
戸田 それもありますね。選んだ道というのは、常々変わりますし、正直、僕は最初はやめてもいいと思っていました。監督からキャンプ後にそういう通告を受けて、九州にいる家族のもとに帰る時までは、「無理かな」と思っていたんです。あそこまで言われて受け入れることはできないと。でも、父親としての面が自分を支えたというか。息子もサッカーをしているのですが、「説明ができない」と思ったんです。「サッカーをやめる」と言った時、「なんで?」と返されたとしたら、説明ができないなと。言っても分からないと思うし、言える話じゃないと思いました。
 
──息子さんはおいくつですか?
 
戸田 9歳です。子供に対する自分、というのもあり、こんなに簡単にあきらめてはいけないと思いました。例えば、息子が大人になって、何の職業に就こうが、上司とうまく合わないこともあると思います。その時に、自分が意味のあるアドバイスをしてあげるためには、ここで簡単にやめてはいけないと。簡単にやめてしまうと、「お父さんはやめたよね」となってしまいますから。どんな結果になろうと、自分が正しいと信じ、正しいと思えることを最後までやることができれば、自分の大切な子供たちが同じような状況になった時に、意味のあるアドバイスをしてあげられるのではと思ったのです。それがすごく大きかったですね。父親であるという事実が自分を励まし、支えてくれました。
 
──結果的に1シーズン続けてやりきって、これもブログに記されていましたが、昨年12月のチーム納会の時に、若い選手が戸田選手のもとにやってきて、「試合に出られなくても変わらず厳しくやり続ける姿勢を見て自分もやらなきゃと頑張れました」と言われたそうですが、逆に言うとそれしか見せることができなかったということですよね。

戸田 そうですね。でも、それすらできなかったら、僕が崩れていたと思います。「負けたくない」という気持ちもあるんですよ。僕が日々の練習に打ち込めなければ負けなんです。「給料をもらえるからいいや」と、だらだらやれるような人間ではないので。でも、ギラギラしているのを出し過ぎてしまうと、周りにも迷惑をかけてしまいます。人間としての勉強というか、社会にはそういう思いをしている人もたくさんいるのかなと思いながらやっていました。


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僕はきれいに引退できるような選手ではない

──会社員などならあるかもしれないですが、サッカー界ではほとんど聞かない話です。プロ選手は特にその場がすべてですし、そう考えていくとますます想像がつきません。

戸田 人間に好き嫌いがあるのは当然です。合う、合わないも当然あります。でも、合う人とだけ仕事をするわけではないですし、サッカーは特殊な技能で結び付いて仕事をするわけですから。そこの部分が絶対的なベースにあって、多少はいろいろな性格の持ち主がいるとは思いますが、基本的にはそういうものだと思っています。僕が毎日チームやチームメートに迷惑をかけるようなことをしたりする人間なら、そういう扱いも仕方ないとは思いますが、そうではないと自分では信じているので。僕は人より強いかもしれませんが、「それぐらいでなければやれない」というのが、自分のスタンスです。昨年、ああいう形(JFL降格及びJ2会員資格消失)になってしまったことは、町田にとって大きなダメージだと思います。僕からすると、作ってきたものがすべてなくなってしまった感じがするので、もう一度作り直すのは大変だと思いますし、残念な一年だったと感じています。自分はピッチの上で何もできなかったので、少し引いた位置からチームを見ていました。現時点では細かいことは言えないですが、自分には指導者になるプランがあるので、チームビルディングやマネジメントの側面で見ると、とても勉強になった一年ではありました。改めて、チームの分かれ道はたくさんあると感じましたし、自分の中では、そういうことが明確に分かるようになったことが、昨シーズン頑張ったご褒美だと思っています。そして、それは意味のあることだと思っています。

──戸田選手は本当に、様々なことをポジティブに考えられていると思います。1シーズンやりきった時に、どういう思いを抱きましたか?

戸田 18歳から20歳ぐらいの時は、とがってはいましたが、他に何もなく、とにかく自分のことで必死でした。それからキャリアを積み、シドニー・オリンピックでは選考外になりましたが、その後日本代表に呼んでもらい、自分を超えてチームのことを考えるとか、見てきた先輩たちの真似をする、というわけじゃないですが、ある程度のキャリアを持つには必要なことだとも思い、そういうことにも取り組んできました。その中で失敗もしました。ストレート過ぎて相手とうまくコミュニケーションが取れず、その相手が監督であると大きな問題になったこともあります。自分がすべきこと、あるべき姿を表現できなかった時には、思うような結果が出ませんでした。振り返れば、「こうするべきだった」という思いは残っています。今ほどの確信は持てませんが、10年前にもあったんですよ。ただ、その時に自分が一歩も引けず、「なんでこうしないんだ」と、監督だろうが社長だろうが、相手が誰であってもぶつかっていました。清水の時もサンフレッチェ広島の時も、結果的に自分がはじかれるというか。それでもいいと思ってやっていたのも事実なんです。選手というのは組織の中で末端というか、選ばれる立場という中で仕事をしているじゃないですか。そういう意味では、選手は選手に徹するしかないということを痛感しています。選手を超えて、戦術的なことはなかなかできませんし、それはあくまで選ぶ人がそういうものを求めて、選手に聞いてきてくれれば、「こう思います」ということを言えるんですけどね。

──またはピッチ上でそういう役割を任せられればできるということですね。例えば今シーズンの横浜F・マリノスにおける中村俊輔選手のような形ですよね。

戸田 そうです。逆に、そういう状況ではない時に、自分の立場を超えてしまうと、何も生まれない。それが正しいと信じてやってきましたが、一度もうまくいかないんです。変な話ですが、負けると分かっていても、負けを甘んじて受け入れるしかないというのが選手なんじゃないかと思います。僕の中では、それが昨年の一年間です。自分の中ではこうすべきという考えがあるけれど、自分にはその役割も与えられていないし、粛々と見て、受け入れるしかない。選手は選手、コーチはコーチ、監督は監督の役割があって、それぞれが最大限の力を発揮しなければチームは回りません。仮に自分に経験があり、見る能力があったとしても、選手をやっている限り触れられない部分です。すごくストレスが溜まるけど、選手は受け入れるしかないということが、自分の中で出た答えの一つです。一つのクラブでずっとプレーした選手ではないし、きれいに引退できるような選手ではないと思っています。昨シーズンでやめてしまっても仕方ないと思いました。町田だから頑張れるけど、もう一度なんてとてもできないし、選手として普通じゃない状況に置かれていたわけですが、状況的にクラブも手の付けようがなかったと思います。クラブが監督を選んだわけですからね。

──キャリアを重ねれば重ねるほど、いろいろなことが見えてきますしね。

戸田 自分のような選手でもサッカーの見方、作り方、壊し方、試合の動かし方が、年々分かるようになるんですよ。僕はもともと後ろの選手で、中盤に上がりました。どちらかというと、ゲームをコントロールする、全体の状況を見るというよりは、守備のタスクから中盤に入っていたので、そういうものだけでは嫌だと思ったし、それだけではそのポジションは務まらないと感じました。それが2002年ワールドカップ後に、イングランドへ移籍した時です。そうやってキャリアの中で、一つずつ勉強してきました。特に町田では、下のカテゴリーでプレーしてきた選手たちが多く、決して能力が低いとは思いませんでしたが、一つカテゴリーが上がった時に、足りない部分はたくさんあったと思います。そういう時に、拠り所になってあげられればいいなと思っていましたが、それすらもできませんでした。ただ、その後にシンガポールの話が出てきました。僕に求められている役割は、今までのキャリアの中でも一番大きいと思っています。

──チームという集団の中で与えられた役割が大きいということですね。

戸田 リーグが定めた「マーキープレーヤー制度」があって、外国人枠ではなく、一つ上の特別枠なんですよ。シンガポールはプレミアリーグの人気があり、代表歴に加えてプレミアのチーム(トッテナム)でやっていたということで、呼んでもらいました。もっとも、胸を張って「プレミアでやっていました」とは全く言えませんけどね(苦笑)。とにかく、期待されているものと背負わされているものはとても大きいと感じています。

背負った役割の大きさと新たなるモチベーション

──では、現在の話に移ります。12年の10月ぐらいに話があったということですが、すごく動きが早いと感じました。シンガポールのシーズンが終わるか、まだ終わっていないかという時期だったわけです。このチーム自体も、過去最低の順位で終わってしまいそうな感じの時に、来シーズンに巻き返すという部分で、その段階で声を掛けられたということですよね。

戸田 そうみたいですね。

──シンガポールサッカー協会理事の是永大輔さんにシンガポールの状況は聞いていましたが、ウォリアーズのことは知りませんでした。調べてみるとすごく名門ですね。

戸田 名門だったのですが、今はこういう状況です(Sリーグ10位 ※第14節終了現在)。

──今は何かを変えなければいけないという状況なんですね。いろいろ取材していると、新チームの出だしは難しい感じになっていると聞きました。日本人選手とシンガポール人選手がうまくいっていないと。

戸田 うまくいっていないというか、僕は昨シーズンまであったものを壊そうと思ってやっています。そこですべきことを提示しなければいけないと思い、ここに来た日からずっとやってきています。

──そこから始めているわけですね。

戸田 こんな言い方をしたら申し訳ないですが、彼らのやり方に合わせていたら勝てないですよ。Sリーグの中でも、アルビレックス新潟シンガポールは、しっかりとスタイルを確立してポゼッションサッカーをしています。もちろん、全員が日本人だから、という部分はありますけどね。そういうふうに、それぞれのチームがしっかりとやり始めている感じがします。残念ながら、ケガで約2カ月も離脱してしまったので、ずっとスタンドから試合を見てきたのですが、とにかく上空をボールが飛んでいる時間が長過ぎるし、中盤も何もありません。前時代のように、ボールを前に入れて、何かが起きるのを待つような感じです。ただし他のチームは、欧米人の監督も増えてきていますし、少しずつ変わり始めていると思います。

──以前は中盤を省略するチームばかりだったと聞いていましたが、つなぐチームが増えてきたんですね。

戸田 僕もまだ全チームを見ていませんが、そう感じてます。シンガポールはピッチの状況が悪いので、中盤を飛ばしたほうがうまくいくこともあるのですが、アルビレックス新潟シンガポールを中心に、しっかりつなぐチームが増えてきていると思います。そういう意味では、うちは少し遅れていますね。

──話を戻しますが、優勝を争えるようなチームにしていく上で、「必要とされた」ことが、移籍を決めた一番の理由ですか?

戸田 そうですね。

──その役割に対して、自分自身が粋に感じたということですよね。移籍は年内に決めていたんですか?

戸田 ギリギリまで悩みましたが、年内には決めました。年明け1月5日にはシンガポールに来ていましたからね。

いくら反発されようと信念を貫く

──実際に加入してみて、最初はどう感じていましたか?

戸田 正直に言うと、「これは大変だ」と思いました。一度ボールを出したら、二度と返ってこないような感覚でした。スキルのレベルも落ちますし、サッカーの考え方が古いとは言いたくありませんが、「これだと勝てないだろうな」という感じでした。もう少しいろいろなことが必要だし、選手なので全部は変えられませんが、今回に限っては役割を負わされているので、いろいろ考えながら、監督にも選手にも提案しています。反発もあったかもしれませんが、勝つか負けるかという世界でやっていますから、正直、そんなことを気にしてる場合じゃないんです。キャンプでは一度も勝ってないんですよ。勝てない理由は全部分かっていましたし、それを変えない限りは勝てないと思っていました。自分のポジションはど真ん中ですから、それをやることが可能なんです。チームには他にも2人の日本人選手がいて、何のために日本人が3人いるのかということを、僕たちは示さなければならない、という話をしています。そこに付いてくる選手と反発する選手が出てくると思いますが、付いてきてくれる選手が増えてくれば良い方向に行くと思います。あとは、彼らがいくら反発しようが、それに対してどうこうするわけではなく、「これが必要だからやるんだ」ということを示してやっていくしかありません。

──ブレずに貫いていくということですね。

戸田 そうですね。その時に、相手に対する伝え方やぶつけ方をいろいろ考える必要はあります。もちろん、練習中や試合中は厳しく言いますが、その後にフォローしたりとか。

──英語をしゃべるということに関しても、一気に取り戻した感じですか?

戸田 久しぶりだったので、来た時は出てきませんでしたね。でも、今はもう、他の日本人よりは僕のほうがしゃべれます。基本的に伝えたいことがたくさんあるので、その都度調べて全部やっているので、そこそこですかね。困りはしません。

──サッカーの言葉であれば、困りはしないということですね。そこは日本人選手が比較的苦手としている部分ですよね。

戸田 でも、チームに入って自分の仕事をするだけなら、そこまでしゃべれなくてもいいんですよ。ただ、自分の場合は、それを超えたところでチャレンジしているので、自分発信でやっていかなければいけませんから、やっぱり、しゃべれないとダメなんです。

──今シーズンの開幕を迎えた時に、町田での一年間があっただけに、少し違いましたか?

戸田 シンガポールにいるということも含めて不思議な感じでしたね。開幕ということだけではなく、昨シーズンの経験があるため、ストレスを感じる瞬間があっても、僕にはそれすらもありがたく感じるようになりました。チームの中で役割を与えられている中で、うまくいかないということに対するストレスはうれしいですね。

自分がシンガポールにいる意味

──「うまくいかないから、こうしなくてはいけない」ことも含めてということですね。

戸田 はい。それができること自体が幸せなんですよ。それを考えて、ぶつかったりしながらも伝え、選手がやれているという実感があるので。もちろん、SリーグはJリーグやタイリーグに比べてもレベルが低いですし、この国自体がもっと本気になってほしいと思っています。自分たちが今までやって来たことを捨ててでも変えなくてはいけないことがあります。例えば、リカバリーに関しても、基本的にゲームの後に回復をするためには、まずきちんと食事と睡眠を取ることが第一で、それからリカバリートレーニングをするのが正しい進め方だと思いますが、なぜかうちのチームはナイター翌日の朝8時から始めます。「それなら、試合翌日にしっかり休むほうが大事ではないか」と言うと、「これがシンガポールのカルチャーだから」と言うんです。また、朝8時からウェイトトレーニングをやります。重さの設定もメチャクチャで、ある人にとっては重いし、ある人にとっては軽い。「なぜやるのか?」と聞くと、「カルチャーだから」と。そういうところがあります。

──そういう部分も変えていっているんですか?

戸田 リカバリーに関しては、僕が言いました。一度、10時に変えてもらったんですが、僕が離脱してから9時に戻ってしまって。また言わなくてはいけませんね。アジアの中ですら、シンガポールが遅れているのは事実なんです。だから、指導者も含めて全員が研究熱心になって取り組まないと、追いつかないと思います。AFCカップというAFCチャンピオンズリーグの下に位置する大会に出ても、相手はインドネシアやインドのチームですが、彼らにも勝てません。そういった現実を見ていかなくてはいけません。そういう意味もあって僕が呼ばれたんだと思います。

──戸田選手が指摘したように、「従わなくてはいけない」と思っているから戻ってしまうんでしょうね。本当に理解をしていないからというか。

戸田 そう思います。

──会社でも、分かってやる人と、言われたからやる人だと雲泥の差がありますよね。理解していると、自分で考えてやるようになるんですけどね。

戸田 その部分で、どういうふうにすればいいかを考えています。相手が悪いとは思っていませんしね。

──分かってもらうためにはどうすればいいのかということですね。

戸田 でも、本当に賢ければ、どちらが正しいのか分かると思うんです。残念ながら、監督も含めて自分たちが慣れ親しんだことにすぐに戻ってしまう感じがあります。

──6月1日の試合で復帰されましたが、35歳という年齢で、フィジカル面はいかがですか? 僕は、35歳はまだまだやれると思っています。

戸田 大丈夫だと思っています。自分が納得できるラインが高いので、納得はしていませんが、60分で足が止まってしまうとか、そういうことはないですね。だから、昨年一年間、頑張っておいて良かったと思っています。

「日本人は良い」という印象を作りたい

──移籍して、髪の毛は赤くしなかったんですね。ブログで「赤くするかも」と書いていたので(笑)。

戸田 赤くしようと思ったんですが、日常生活が困ると思ったのと、赤くした後の処理を考えてやめました(苦笑)。

──シンガポールは、日本人の人口が毎年増えてきています。住んでみていかがですか?

戸田 住みやすいですよ。すべてが整っています。インドネシアやインドに比べると整っていますし、食べ物も全く困りません。

──練習場のすぐ近くに住んでいるんですか?

戸田 もうすぐ引っ越す予定です。子供の学校と幼稚園があるので。

──単身赴任ではなく、奥さんとお子さんもこちらに来られたのですね。

戸田 2カ月前ぐらいに来ました。来た当初は引っ越しなどについてのクラブとのやり取りが大変でした。ここだと送迎のバスが来ないんです。僕が送り迎えをできませんし、毎日タクシーを使うわけにもいきません。奥さんに運転させるのも心配ですからね。子供の学校がスタートするギリギリのタイミングで引っ越すことができました。こっちは、人種が違うこともあるのか、頼みごとをしても、物事が進まなかったりもします。でも、その時に「なんでしないんだよ」と言うのでなく、辛抱強く何回も頼んでみたり、相手の顔色を見て頼み過ぎないようにしたりなど、気を付けています。昔と違い、いろいろな角度から物事を捉えられるようになっているので、僕にとっては大きいことですね。サッカーや物事に対する根本的な考えは変わっていませんが、相手と共有するためのぶつけ方、見え方が増えてきました。

──今後の自身のキャリアについて、どういうイメージをされていますか?

戸田 今は選手を超えた部分での役割を任されてやっていますから、そこでどれぐらいできるか、どれぐらいの影響を与えることができるか、ということですね。近いうちに引退すると思いますが、何をするのかは決まっていません。シンガポールにもたくさんの日本人選手がいて、いろいろな人と連絡を取っていますが、全員に活躍してもらいたいですし、成功してもらいたいです。お互いの試合を見に行ったりもします。「日本人は良い」という印象をこの国でも作りたいですね。

──今シーズンの戸田さんの活躍が、すごく楽しみになりました。ありがとうございました!

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