ウェルダンに焼かれた熱々の牛肉にかぶりつくと、ホロリと肉の繊維がほぐれ、口の中には肉汁とともに肉本来の脂や旨味が溢れだす。岩塩のみのシンプルな味付けで、大ぶりに切り取られた肉片を、次々と噛み締める。塩気が強まると、ライムをたっぷり絞ったブラジル伝統の「カイピリーニャ」を一気に流し込む。キリッとしたライムの酸味とさとうきびの甘みを含んだカクテルの清涼感が、再び肉片に手を伸ばさせる。
ブラジル滞在10日目。と言うよりも、残り8日となった段階でようやくまともな食事にありつく。何しろ今大会は、超が付くほど過密スケジュールである。中2、3日の連戦続きで各試合の会場が異なる上、日本の22.5倍という広大な国土を持つこともあり、毎回飛行機移動を強いられる。日本代表のパフォーマンスを落とした日程面の問題には、こちらにも大きな打撃を与えた。何しろ開幕からの食事は、1にコーラ、2にコーラ、3、4がなくて5にスナック菓子という有り様だった。
グループリーグ最終戦となった日本対メキシコの一戦を前日に控えたメディアセンターで、いつものようにコーラを購入しようとしていたら、列の前方に並んでいたブラジル人記者に突然声をかけられる。
「日本にはデモの習慣がないかもしれないが、ブラジル国民の抗議をどう思う」
いや、日本にも1960年代から学生紛争というものが行われて東京大学の安田講堂が占拠されたこともあってだな、という言葉が喉まで出かかる。しかし、悲しいかな、ポルトガル語も英語もサッパリなこともあって、そんな言葉は出てこない。答えに困ったところで、海外取材が豊富で今回も大変にお世話になっているカメラマンの方に助けを求める。
「今、ブラジル国民は公共サービスの向上を訴えているんだ。バスの値上げはするし、病院では医者の数が足りない。学校では教室に生徒がスシ詰めとなっている。そういうところに金を使わず、ワールドカップのため、スタジアムにどんどん投資しているし、官僚は汚職によって大金を手にするんだ」
とりあえず熱心な説明もあり、ひとまず学生紛争の歴史は置いておく形となったが、ベロ・オリゾンテでも最大級という新聞「ジャーナル エスタード デ ミナス」の記者であるダルマシノ・ルナンは、まくし立てた。
実際には連日報道されていたデモだったが、どんどん拡大する様子とは裏腹に、こちらに実感は全くなかった。開幕戦が開催されたブラジリアでは、スタジアムの外で逮捕者が出る大規模デモが行われたようだが、幸か不幸か騒ぎに巻き込まれることはなかった。第2戦が行われたレシフェに至っては、住民が騒ぐことは一切ないまま、のほほんと暮らしていた。
ただ、テレビではリオ・デ・ジャネイロやサンパウロでのデモの様子を大々的に報じていたし、ブラジル国民のデモへの関心の高さは試合の監督会見でも見られていた。
試合前日会見での各国指揮官達は、ブラジルの取材陣から必ずと言っていいほどデモへの感想を求められていた。ブラジルのルイス・フェリペ・スコラーリは言うに及ばず、もちろんザックにも、プランデッリにも、メキシコのデ・ラ・トーレにも、ブラジル国民の抗議にまつわる質問が飛んだ。
そして、第3戦の地であるベロ・オリゾンテでは、ついにブラジル国民の怒りを目の当たりにすることになった。過去2試合の土地とは変わり、空港から宿に向かう中でも気勢を上げるブラジル人の様子は確認でき、メキシコ戦直後にはデモから派生した不測の事態に直面する。
試合中にデモと警官が激しく衝突したことから、試合後の街中は物騒な雰囲気に満ちていた。既にデモは退去していたが、ところかしこにおびただしい人数の警官が立ち並ぶ。乗っていたタクシーが信号待ちをしていると、目の前をスケボーで横切った兄ちゃん達がいきなり警官にライフル銃を向けられ、壁に手をつかされていた。
当然ながら交通規制は行われ、タクシーも大回りを余儀なくされかけたが、運転手が実に頼もしい。交差点にズラッと並ぶ警官に止められながらも、「日本人を乗せているから特別に通してくれ」と交渉する。防弾チョッキの上に手りゅう弾を付けた物騒な出で立ちの警官がタクシーを囲み、助手席を確認する。
警官は「行け」と言うかわりに、ぶっきらぼうに親指で道を指し示したことで、何事も無く通行止めを通過させてくれた。運転手は「俺、あいつらと友達だから」と得意気に笑ったが、明らかに友達でないことは助手席に乗っていてよくわかった。ただ、警戒態勢の警官達に向かって本当に友達感覚で交渉した姿には感謝するしかなかったので、降車するときに渡した代金も弾ませておいた。
実際にデモの影響を体感したことで、少しではあるがブラジル国民の怒りは肌で感じたし、怒りの根底にワールドカップの開催が少なからず絡んでいることも何となくだがわかってきた。サッカーの国であるブラジルでも起こり得ることなんだなと、多少意外に感じながら、後日メディアセンターで再びルナンと出くわしたので、意地悪な質問だとわかっていながら、究極の二択をぶつけてみた。
「いや、ワールドカップの開催と公共サービスの向上は、全くの別問題だよ。片方だけでなく、どちらにもしっかりとお金を使うことが大事なんだ」
ルナンは「ワールドカップ開催と公共サービスの向上、選ぶならどっち」という問いにも、身振り手振りを交えて熱心に答えてくれた。
やはり、ブラジルはサッカーの国である。ただ、サッカーだけの国ではもちろんないのである。
文●小谷紘友