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ドゥンガ「今の日本代表は、世界のどの国とでも互角に戦える素晴らしいチームに成長した」

2013.04.24

Jリーグサッカーキング6月号 掲載]
ドゥンガがJリーグに足を踏み入れたのは1995年夏。それは彼がアメリカでワールドカップを掲げてから、わずか1年後のことだった。サッカー王国ブラジルを世界の頂点に導いたカナリア軍団の“闘将”は、Jの舞台で何を見て、何を感じたのか。あの頃の記憶に思いを馳せる。
ドゥンガ「今の日本代表は、世界のどの国とでも互角に戦える素晴らしいチームに成長した」
協力= Jリーグメディアプロモーション

今日はインタビューを受けていただき、ありがとうございます。

ドゥンガ こちらこそ。20周年を迎えたJリーグに心からお祝いの気持ちを表したいと思います。Jリーグでプレーできてとても幸せでした。日本人選手、日本代表、そしてJリーグが成長する姿を見ることができ、大きな喜びを感じています。私は今後のさらなる成長を遠くブラジルから願っていますよ。

1995年の来日当時、Jリーグにはジュビロ磐田でチームメートだったスキラッチやファネンブルグを始め、各クラブに世界的なビッグネームが数多く在籍していました。あなたがJリーグでプレーすることを決断した理由を教えてください。

ドゥンガ Jリーグのことは鹿島アントラーズでプレーしていたジョルジーニョを始め、何人かのブラジル人選手から聞いていたので、磐田からオファーを受けた時は「こんなチャンスは二度とない」と興奮しました。自分がいわゆる“サッカー宣教師”となって、これから成長しようとしている日本サッカーに知識や経験を伝えることができる。それはとてつもなく大きなモチベーションになりました。もともと日本の文化に興味を持っていたこともありますが、当時のJリーグではワールドカップを経験したことのある選手が数多くプレーしていたんです。そのことも、私が日本行きを決断する上で非常に大きな後押しとなりました。

加入当初のJリーグの印象を聞かせてください。戸惑いはありませんでしたか?

ドゥンガ ありませんでしたよ。Jリーグは当時から、ヨーロッパや南米と比較しても選手やスタッフが最高のパフォーマンスを発揮できる素晴らしい環境が整っていたと思いますから。ピッチコンディション、用具……私がクラブに希望したことはすべて整備されていました。Jリーグ全体の運営組織も申し分なかったですね。サッカーは“カレンダー”が重要なスポーツですが、それも非常によく整備されていたと思います。選手がサッカーに集中できるよう、より良い環境を作ろうとする工夫もなされていました。ただ、一つだけ想定外だったことを挙げるとすれば、それは日本のサポーターは相手チームに野次を飛ばすためにスタジアムに足を運ぶのではなく、自分のチームを応援し、鼓舞するためにスタジアムに駆けつけていたということ。ブラジルやイタリアでプレーした私にとって、それはポジティブな意味での驚きでした。

選手やレフェリーの技術的、戦術的なレベルについてはどう感じていましたか?

ドゥンガ Jリーグは発足したばかりでしたから、すでに完成されたイタリアのセリエAからやって来た私にとっては、選手、レフェリーとも少し正直すぎるように感じました。つまりそれは、「何が何でも結果を求める」という姿勢があまり感じられなかったということです。ただ、そういった考え方は徐々に浸透していったと思いますよ。それに伴って技術やアジリティーも向上していきました。当時はブラジル、イタリア、ドイツなどクラブによって異なるスタイルのサッカーを目指していましたが、それもまたJリーグの成長にとってポジティブな要素でした。世界各国のビッグネームが集結していたこともあって、レベルは非常に高かったと思います。ただ、一方で当時の日本代表には“闘争心”が欠けているように感じました。もちろん、経験を積み、技術を磨き、闘争心を養った今の日本代表は、世界のどの国とでも互角に戦える素晴らしいチームに成長したと思います。

日本サッカー界に何を伝えようと考えていたのですか?

ドゥンガ サッカーにおいて最も大事なこと。つまり、サッカー特有の駆け引きや的確で素早い判断能力、常に勝利を目指す闘争心、それから自分自身の力を信じること。当時の日本人選手は勝利に対する執着心が希薄で、サッカーを楽しむものとして捉えていた気がする。ご存じのとおり、サッカーは楽しいことだけじゃない。苦しむこともある。でも、日本人選手は苦境に打ち勝つことをあきらめていたように思えた。最高のパフォーマンスを見せるために集中力を研ぎ澄まさなければならないのは当然のこと。自分がいい選手であることを証明するためには、何よりまず自分を信じなければならない。

そうした意思を伝えるため、あなたが大声を張り上げる姿は今も多くのファンの脳裏に焼き付いています。具体的には、ピッチ上でどんなことを指示していたのでしょうか。

ドゥンガ 一番は攻守の切り替えに際してのポジショニング。日本人は時折思考が乱れて、守るべきポジショニングにズレが生じることが多かったですから。もう一つは、正しい状況判断をすること。特にボールを奪った後はすぐに攻撃に切り替えなければならない。私はいつもカウンターで3対2の数的優位な状況を作りたいと考えていたので、守備から攻撃への切り替えはスピーディーに行わなければならない。それなのに、日本人にはカウンター時に減速してしまうクセがありました。逆に3対4の状況を作られて、攻撃そのものを作り直さなければならないことが多かった。それを改善するために、具体的な動き方についても教えていました。

具体的なところとは?

ドゥンガ 例えば、ニアサイドに走るべきか、ファーサイドに走るべきかという判断ですね。とにかく、選手たちはボールが自分のところに来るのを待つ傾向にあった。本来ならば自ら積極的にボールへ向かうべきです。そうしたプレーは自分自身に対する自信のなさに誘引されていた。磐田にはフジタ(藤田俊哉)、ナナミ(名波浩)、フクニシ(福西崇史)、ナカヤマ(中山雅史)、ハットリ(服部年宏)、タナカ(田中誠)といった非常に高い能力を持つ選手がいたが、それにもかかわらず、自分自身を信じてプレーしていなかったように感じた。私はそれを改善したかった。

そうしたメッセージは、磐田の選手、あるいは日本サッカー界全体に伝わりましたか?

ドゥンガ もちろん。私の来日当時、磐田で日本代表の中心選手だったのはナカヤマだけだった。しかしクラブを離れる98年には7人もの日本代表選手がいたんだからね。チームはJリーグ王者になり、アジアを制し、それ以外にいくつものタイトルを獲得した。磐田は非常に小さい町だが、闘争心溢れるいいチームだった。そういった意味では、鹿島アントラーズも強く印象に残っています。

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