「僕のレフェリングがどうこうではなく、日本のサッカーを強くしたいという思いでやっていました」
ワールドカップの舞台を2度にわたって経験し、Jリーグでも優秀主審賞を二度受賞。レフェリーとして日本屈指の経歴を持つ上川徹さんは、穏やかな笑顔を浮かべながら現役時代を振り返った。
サッカーのレフェリーとは、厳しい職業である。90分間、選手と共に走り切れるスタミナ、刹那のプレーを見極める動体視力と判断力、そして常に公平な立場であり続けるメンタリティーが備わっていなければ、十全には務まらない。
しかも、彼らに注目が集まるのは誤審などの大きなミスが起きた時がほとんどで、素晴らしい判定が世間の注目や称賛を浴びることは少ない。だが、上川さんはそれをネガティブに捉えてはいないという。
「我々の世界はうまくやって当たり前、称賛されることは少ないと割り切っています。一方で、注目されることも必要だと思っています。何か大きなミスをしてしまい、それが取り上げられなかったとしたら、諦められているということでもありますからね」
Jリーグのフィールドに立つ夢をかなえられるんじゃないか
小学生の頃からサッカーに触れ、その実力を買われて湘南ベルマーレの前身であるフジタ工業で選手生活を送った。そんな上川さんにレフェリーへの誘いが届いたのは、Jリーグの開幕を2年後に控えた1991年のことだった。最初はプロ選手への憧れから、レフェリーになることに反発を覚えたという。
「最初は『なんでレフェリーなんだ』という思いがありました。しかし落ち着いて時間をかけて考えてみたら、レフェリーとしてサッカーに関わっていけることの喜びが先に来るようになりました。選手としてはかなわなかった、Jリーグのフィールドに立つという夢をかなえられるんじゃないか、という将来像が見えてきたんです」
サッカーの世界、プロの世界に関わっていけることが、レフェリーを目指す上での大きなモチベーションになったという。
国内外で活躍した現役生活
プロの試合で笛を吹くことを目標に掲げてトレーニングに励み、3級、2級、1級と審判員資格を取得して、徐々に「J」の世界が間近に迫ってくることには興奮を覚えたという。そして1996年、ついにJリーグの主審としてプロのフィールドに立つ。
「初めてJで笛を吹いた時のことは覚えてはいるんですけど、やはり何もかもがスピーディーでしたし、激しさも違うし、ましてや選手のレフェリーに対する態度もね」
Jリーグ草創期のピッチでは、審判をリスペクトするという精神は希薄だった。そのため、一回り以上も年齢の若い選手から罵声を浴びせられることもあったという。
「やはりレフェリーに求めているものはすごく高く、厳しいですよね。それがプロの世界なのかもしれない。求めるものが高くなると、レフェリーへの対応や態度も厳しくなるのでしょうし、当時はそれが顕著だったと思います」
1998年に国際主審として登録され、海外で笛を吹く機会が増えた。すると逆に、国内の試合を裁くことの難しさを感じることもあったという。
「僕らは外国に行くと、他国の選手とはうまくやれるわけですよ。言葉が通じない外国の選手とは、コミュニケーションに気を遣っているのもあるかもしれないですね。一方で、国内のゲームは言葉が通じるし、何度も顔を合わせていて、前の試合の判定なども覚えているので、逆に難しいこともありました」
様々な経験をしながら活躍してきた上川さんも、2007年1月に現役引退を決意する。晩年はひざの痛みに耐えながらのレフェリングを強いられており、やむを得ない引退だった。試合を裁くことはもちろん、試合に向けての準備をも楽しんでいた上川さんにとって、ケガは何よりつらいことだった。
「自分の中で不安を抱えながら試合に入っていかなければならない。納得いくパフォーマンスができない。最後の頃はそんな状態でした。自分ではどうすることもできないことが原因で、次の試合に向けてうまく準備できないのがつらかったですね。そのつらさは、きっと選手と同じだと思います」
技術だけではなく、人間的な部分も育てたい
引退し、現在の肩書は「日本サッカー協会審判委員長」である。サッカーはもちろん、フットサルも含めた審判に関わることすべてに目を向け、後進を育てている。
「今は18歳以下だけで7万人もの審判員が登録されています。彼らには、審判としての責任だけではなく、サッカーの面白さや、サッカーを取り巻く環境を見られるよう、技術だけではなく人間的な部分にも注目して指導しています」
その中でも、トップリーグのレフェリーを目指す若者に求めたいこと、必要なものがあるという。
「プロの試合を任されている以上、レフェリーもプロフェッショナルでなければなりません。時には厳しい意見、批判をされることもあります。しかし、それらをネガティブに考えるのではなく、自分に至らない部分があるのだと心をオープンにし、次にステップアップするための助言を授かっていると思うことです。それができれば、周囲の声をパワーに変えていけると思います」
競技規則や審判の難しさも理解してほしい
Jリーグ開幕から20年以上が経過し、レフェリーを取り巻く環境も大きく変わった。
「判定力は上がってきていると感じます。我々の時代は経験から来る予想や感覚的なもので判断していましたが、今は映像を使って試合前に対戦チームの戦術など事前に情報を入手するようになりました。判定を下す上での考慮ポイントが細かく整理されているので、精度が高くなっているのでしょう」
変わったのは技術だけではない。
「選手も変わりました。レフェリーの判定をリスペクトしてくれるようになっています。選手も成長していますので、我々も時代に合ったレフェリングを考え、世界のレフェリングのトレンドも意識しながら取り組んでいかなければならないですね」
世界を目指して数々の選手が海を渡る中、レフェリングにおいても世界基準を目指す努力は常になされている。
「我々もJリーグの開幕前にスタンダード(判定基準)映像を作り、各クラブでルール講習会を行い、メディアの方には説明会を実施しています。これはFIFAも同じです。FIFAも毎年、『ホットトピックス』という形でいくつかの映像を編集し、判定基準を各国に配信しています。そうした努力で、FIFAも判定基準の幅を狭めようとしているのです。FIFAの示す基準とJリーグの基準に差はないと考えています」
こうした活動は、クラブ、メディア、サポーターに対して理解を求めることにもつながる。
「判定への批判は真摯に受け止めて改善していかなければなりません。一方で、競技規則や審判(判定)の難しさを、選手、チームの方やメディアの方々に理解していただきたい。ルール講習会などの取り組みはそのためです。そういう理解を深めていき、判定の難しさ、レフェリーへの理解が伝わればいいと思っています」
サッカーにおいて、レフェリーの存在は必要不可欠だ。彼らの判定に対し「良いジャッジだ」、「いや悪いジャッジだ」、「誤審だ」などと議論を交わすことも、重要なサッカー文化の一つと言える。ただ、どんな時も日々、努力を重ねているレフェリーに対する理解とリスペクトの気持ちを忘れてはならない。そうした環境を作ることが、日本のレフェリーのレベルアップ、ひいては日本サッカーのレベルアップにつながっていく。
上川委員長はレフェリーを志す7万人の若者にも大きな期待を寄せている。
「今は審判にもプロの世界ができ、日本にも15人のプロフェッショナルレフェリーがいます。W杯でも日本人のレフェリーが笛を吹いています。レフェリーを志す若い子たちが、高い目標を持てるようになってきたと言えるでしょう。それだけの高いレベルを目指してほしいのはもちろんですが、同時にレフェリーの立場をしっかりと理解し、一つひとつの試合で一つひとつの判定を大事にしてほしいですね。その中で、選手たちに納得してもらえるようなレフェリングを目指していってほしいと思います」
インタビュー・文=峯嵜俊太郎(サッカーキング・アカデミー)
写真=葛城敦史
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