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【兄弟対談】ジョン・カビラ&川平慈英~マラドーナを神と崇める男たち~世界でただ一人?優勝直後に抱き合った秘話明かす

2016.06.01

 サッカー史に残る名選手ディエゴ・マラドーナ。生きる伝説として、現代のサッカー界にも多大なる影響を及ぼしている。

 そのマラドーナが伝説の存在となった大会が1986年に開催されたメキシコでのワールドカップだ。カルロス・ビラルドに率いられたアルゼンチン代表のエースとして参加したマラドーナは準々決勝のイングランド戦で、サッカー史に残るプレーを見せた。

 クロスに飛び出した相手GKに先んじてボールを触りゴールを決めた“神の手”ゴールと、センターライン付近からイングランド守備陣を手玉に取るドリブルでの“5人抜き”からのゴール。この2点で勝利したアルゼンチンは決勝でも西ドイツを下して、同国2度目となるW杯トロフィーを掲げた。

 マラドーナが伝説の選手となったメキシコW杯からちょうど30年。『サッカーキング』ではその偉業を振り返るべく、サッカー界の様々な人物に話を聞き、偉大さを再認識するべく、『マラドーナ特集』を実施する。

 第2回のインタビューはジョン・カビラ氏と川平慈英氏による“兄弟対談”。サッカーを愛する両名にサッカーとの出会いから、愛するマラドーナについてなどを、熱く、熱く語ってもらった。

 前後編に分けてお送りする前編ではサッカーとの出会いや、1979年に日本で開催されたワールドユースでのマラドーナ擁するアルゼンチン代表とのまさかのエピソードなどについて聞いた。

 マラドーナへの愛を存分に語る後編はコチラ→https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20160602/450609.html

インタビュー=小松春生
写真=野口岳彦
取材協力=「Futbol&Cafe mf」(http://mf-tokyo.com/

兄はテレビから、弟は選手としてサッカーの世界へ

お二人のサッカーとの出会いから教えてください。

川平慈英(以下、慈英) 1972年に母の故郷であるアメリカへ家族旅行をした時、サッカーのサマーキャンプのようなことを実施していたんです。アメリカの場合は、子ども達の夏休みが長いので、いろいろな形でスポーツキャンプをやっていたんですね。カンザス州のヘストン大学という地元の短期大学に、なかなかの強豪チームがあって。アメリカでは地元密着型で、コミュニティぐるみでサッカーファンベースを作りたいという希望があって、ヘストン大学が子ども達向けのサッカーキャンプを開いていました。そこに参加したのが最初ですね。

ジョン・カビラ(以下、ジョン) その年は沖縄の本土復帰の年だったんですが、謙慈(次男)と慈英がアメリカに残って、僕は日本へ戻りました。僕は69年から70年までカンザスにいたのですが、「母の故郷も体験させたい」という親の思いもあって、叔父のところにホームステイしました。

慈英 僕はアメリカでサッカーをしたのが人生で初めてでした。今でこそ沖縄もサッカーが盛んになりましたが、元々は野球人気がある土地なので、ボールを蹴った記憶はないですね。そして、奇しくも、僕が大学時代にカンザスへ短期留学した時、小学生の時にコーチをしてくれたシーバー監督がまだ指導されていて、ヘストン大学では彼の元でプレーしました。

ジョン すごい偶然だよね。

慈英 覚えていてくれたんですよ。僕は少し遅れて大学に入学したんですけど、サッカー部が練習している時に「よろしくお願いします」と挨拶したら、「あれ? 72年の時にいたよね?」みたいな。

ジョン 10年くらい経過していたんじゃないの?

慈英 9歳の時、キャンプに参加していたから、ちょうど10年後だね。

ジョン 僕は学生時代、部活もやらず。父の仕事が変わって、東京に来て。そこで『三菱ダイヤモンド・サッカー』をテレビで見たことが最初ですね。金子勝彦さんと岡野俊一郎さんをずっと見ていました。プレーは大学で同好会に入った程度です。大学入学前は、アメリカンスクールに通っていたんですが、サッカー部は実力で足切りがあったので、参加できる人数の枠に入れませんでした。少年団とかでプレーしていたわけでもないので、当然なんですけどね(笑)。入学した国際基督教大学(ICU)では、ちょうど学内リーグ発足の年で、チームに入ってやっていただけです。その間に遊びに来てくれたんだよね?

慈英 行ったよねー! ICUの兄貴のチームでプレーさせてもらっていました。楽しかったなあ。僕はアメリカ時代の小学校でサッカーの虜になって、帰国してから玉川学園でサッカー部、高校では読売サッカークラブに在籍しました。キャリアのピークは高校2年の時、ユースの大会で三菱養和と同点優勝した時ですね。実は延長戦でヘディングシュートを決めているのですが、キーパーチャージを取られて。悔しかった!

ジョン 読売クラブに入ったのは、誘ってくれた人がいたんだよね?

慈英 横浜FCの監督もやった足達勇輔さん。

ジョン 足達さんとはどうやって知り合ったの?

慈英 玉川学園サッカー部の先輩で。「サッカーを真面目にやりたいなら読売に来いよ」って言ってくれて。

ジョン でも、読売クラブのレベルはすごく高いのによくやれたね。

慈英 中学3年間の教えで、サッカーの基礎が叩き込まれたのが大きかったかな。あと、僕は足が速かったんです。キック・アンド・ラッシュ戦術が得意で(笑)。だから足裏を使ったり、ドリブルフェイントとかのテクニックを覚えたのは、全部読売からでした。都並(敏史)さん達のテクニックは衝撃的でした。

ジョン 当時の日本リーグでも屈指のテクニシャンが揃っていたわけだから、それはすごいよね。

慈英 よくトップチームとミニゲームもさせてもらって、あれが一番の勉強になりました。菊原志郎が加入した時は、中学生だろうが関係なく、僕ら高校生が押しのけられてスタメンなんです。学校では先輩と後輩の上下関係がありましたが、読売では年齢に関係なく、うまい選手がスタメンで。これは当時、刺激的でしたね。

ジョン 競争があるのは素晴らしいことだと思いますよ。

慈英 ユースは食事がクラブから支給されなかったから、横でトップチームが帰るのを待っていたんです。牛乳くらいは分けてもらえたけど、ご飯をもらえるか、もらえないかの線引きはすごく大きかった。トップチームに入れば待遇も変わるので、競う意識が生まれました。

ジョン 日本のプロフェッショナリズムの発芽期みたいなものだよね。競争心を煽るという意味においても。

慈英 そうそう。そんな環境に身を置けば、誰もがうまくなりたいと思うようになりますよ。

1978年W杯は兄弟でテレビ観戦「何だ!このスポーツの祭典は!」

方やテレビで見ることが中心、方やプレーヤーだったお二人が、今もサッカーのお仕事を共にされているということは運命的なものを感じます。

ジョン 不思議ですね。

慈英 ちょっと思い出話してもいいですか? 忘れもしませんよ。1978年のアルゼンチン・ワールドカップの時、神楽坂にある銭湯の上にある兄が借りていたアパートで、結露どころじゃない状態の部屋でアルゼンチンの試合を見ていたのを覚えている?

ジョン はっはっは(笑)。見たね。

慈英 何週間か転がり込んで、そこから大学に通っていました。そこで毎日のようにW杯を見ていたよね。絶叫しながら見ていたのを覚えている。

ジョン 懐かしいな。決勝をNHKが放送したんです。

慈英 マリオ・ケンペスだ!

ジョン (実況風のいい声で)マタドール・マリオ・ケンペス。

慈英 一瞬で虜になりました。「何だ!このスポーツの祭典は!」と。観客席から紙吹雪がピッチを覆い尽くすほど撒かれて。

ジョン 冗談みたいな話ですけど、その光景を見て、僕らは一瞬「そうか、南半球は冬か」思ってしまうくらい。

慈英 「雪が降っているぞ!…いや違うぞ?」ってね(笑)。本当に衝撃的でした。「こんなにも人間が狂喜乱舞しているスポーツは何なの?」と思いました。サッカーのW杯とはこんなに盛り上がるものなんだと。

ジョン 当時のアルゼンチンはホルヘ・ラファエル・ビデラが大統領だったので軍事政権でした。だからW杯でもいろいろと混乱がありました。ヨハン・クライフが今年、亡くなりましたが、何故アルゼンチン大会に出なかったのかという話が、またあぶり出されていますし。

慈英 クライフが亡くなったニュースは衝撃的でしたね。仮にマラドーナ死去のニュースが出てしまったら、受け止められるか不安ですね。

ジョン いや、よせよ、よせよ。そんな変なこと言わないでよ。

慈英 今、映画(『グランドフィナーレ』)にマラドーナのそっくりさんが出演しているんですけど、お風呂に入っている映像から始まるんです。その姿がかなり太っていて…。

話題はマラドーナへ…

ジョン 憧れのスターが変わっていってしまうツラさはあるの?

慈英 そこはもうファンですから。全てを正当化しちゃう。

ジョン 体制側につかないマラドーナも好きでしょ?

慈英 大好き。

やはり牙が抜かれてしまったマラドーナは魅力半減ですか?

慈英 言動を見ていると、まだ牙が一本くらいは残っている気がしますね。

ジョン (セサール・ルイス)メノッティの冷徹な超管理主義を生き抜いたことがベースにあるからね。

ここからは1979年に日本で開催されたワールドユースについてお聞かせください。実際にスタジアムで観戦されていたとうかがいました。

ジョン 僕は大学の先輩と決勝を見に行きました。慈英が行っていることは全く知らなかったんです。

慈英 僕は決勝の前日、たくさん作った紙吹雪をゴミ袋2つに入れて、友達とサンタさんのように担ぎながら入場したことを覚えています(笑)。でも、撒き過ぎちゃって、前半終わる前になくなっちゃいました(笑)。

今の日本ではできないですよね。

ジョン 持ち込めないですからね。FIFA主催の国際大会は日本初どころかアジア初の大会でしたし。

現役時代のマラドーナに試合終了直後、抱きつく!

そして慈英さんは試合終了と同時に観客席からピッチに降りて、マラドーナに抱きつきに行ったんですよね?

慈英 6秒間くらいですかね。マラドーナはラモン・ディアスと抱き合って号泣していたところに僕も加わった(笑)。

ジョン そもそも整理すると、読売クラブのチームメイトと見に行ったんだよね?

慈英 そうだね。

ジョン もう、行くと決めていたんだよね? これは何故かというと、ハーフタイムで早くも人が溢れるようにピッチへなだれ込んでいたんですよ。今じゃ考えられませんが(笑)。

慈英 僕も記憶がなかったんですけど、スタンバイはできていた(笑)。

ジョン はっきりと慈英の話を忘れず、覚えているんですけど、友達と一緒にピッチへ降りるスタンバイができていて、試合終了の笛が吹かれた時、走り出しでその友達に先に越されてしまったと。先に行かれた友達を追いかける慈英がいて、その友達が警備員ともみ合っている横を「ごめんな」と言って、ピッチへ飛び込んだんだよ。

慈英 あーそう! よく覚えているね(笑)

先に行った友人の方が当て馬にされたようですね(笑)。

慈英 ある意味、ラッキーだったんだ。

ジョン ラッキーだよ。飛び降りて一直線に向かったのが、ラモン・ディアスと抱き合うマラドーナ。2人が抱き合っているところにどうやって混ざったの?

慈英 バーッと駆け寄っていって、それからラモンが離れたんです。そこからマラドーナと抱き合って、目があったら「誰だ、コイツ?」と言わんばかりに、両手で顔をプッシュされて、押しはがされましたね。


ジョン というのを、慈英が興奮し尽くして語ってくれたんです。

慈英 とにかく、汗がベットリとついていたことを覚えています。あとは体がめちゃくちゃ分厚かった!ビア樽のような体でした。しかも、マラドーナは僕より少し背が低かったんです。160センチくらいかな? でも、体はビア樽ように分厚くて汗ぐっしょりで。体臭も結構キツくて。

ジョン 体臭は後付けのエピソードでしょ?(笑)

慈英 うん(笑)。体臭までは覚えてない。それから振り向いたら波のように人がピッチに駆け降りてきたんです。でもNHKの当時の放送では、試合終了と同時にピッチを映していないカメラに切り替わったから、中継に僕が抱き合っている姿は映っていないんですよね。

ジョン 僕もメインスタンドから見ていましたけど、わからなかったくらいですから。だって弟が抱き合っているのを気づかないんだから(笑)。そのくらいワーッと人がなだれ込んでいました。でも、ここからすごいですよ。

慈英 NHKの生放送番組に出演した時、FAXが届いたんです。司会の方が、「慈英さん、ここで面白いFAXが届いています」と。内容は、当時の決勝戦を夫とブエノスアイレスで見ていたという女性からのFAXで。当時、アルゼンチンでの放送は衛星放送で、放送が切り替えられないから、そのままスタジアムのピッチを流していたそうなんですよ。そうしたら、「私は見ました。ある少年がマラドーナに抱きついている。それはあなただったんですね!」と。もうオンエア中にも関わらず、泣きそうになって。マラドーナとディアスと抱き合っていた少年がいたっていう裏付けができたんですよ。本当に、忘れもしない。そこで僕の中でマラドーナは神格化しました。

ジョン マラドーナは国際的な大会でのタイトルはそのワールドユースと86年のメキシコW杯の2つしかない。その2つしかない優勝の瞬間、マラドーナに抱きついた一般人って、世界でいるのか?!

慈英 肌を交わした人間はいないだろうね。

ジョン そんな人は世界にいないよ!

マラドーナと抱き合った話は世界中で盛り上がる!

慈英 僕の夢として、必ずマラドーナとの対談を成功させて、彼が覚えているかどうかは分からないですが、「あの時に抱きついたのは僕なんです」と言いたい! ちなみにラモン・ディアスにはその事を聞く機会があって、尋ねたら「何となく覚えている」と言ってくれました。

ちなみにジョンさんはピッチへ降りようとは思わなかったんですか?

ジョン いや、全く。分別のある大学生でしたので(笑)。いやでも、もともと自慢の弟だったんだけど、これは僕にとっても宝。嬉しい!

慈英 嬉しいね。パンッ!(ハイタッチ)

ジョン 「弟はマラドーナと抱き合ったんだ!」と、いろいろな人に言える人間だって、この世の中にいないんだから。

慈英 この話はどこの国に行っても、盛り上がりますよ。勲章です。

ジョン 先に行って、警備員の人ともみ合ってくれた友達にも感謝しないと(笑)。

慈英 お礼を言わなきゃ。もう、人生の中でのハイライトモーメントですよ。

マラドーナへの愛を存分に語る後編はコチラ

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By 小松春生

Web『サッカーキング』編集長

1984年東京都生まれ。2012年よりWeb『サッカーキング』で編集者として勤務。2019年7月よりWeb『サッカーキング』編集長に就任。イギリスと⚽️サッカーと🎤音楽と🤼‍♂️プロレスが好き

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