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ヤン・オブラク 世界最高への長い道【雑誌SKアーカイブ】

2020.04.14

A・マドリードの絶対的守護神として君臨するオブラク[写真]=Getty Images

[サッカーキング No.002(2019年5月号)掲載]

名前を聞いてもピンとこない人がいるとしたら、覚えておくべきだ。
ラ・リーガで3シーズン連続のリーグ最少失点を記録した守護神。
ヤン・オブラクは26歳にして、世界最高のGKの一人と評価されている。
ビッグクラブの注目を集める彼が、自身のキャリアについて語った。

インタビュー・文=クリス・フラナガン
翻訳=加藤富美
写真=ゲッティ イメージズ

 マドリード中心部から北西に16キロ。マハダオンダに位置するアトレティコ・マドリードの練習場は、雪を頂いたグアダラマ山脈が背後に見える美しい施設だ。ずいぶん体格のいいグラウンドキーパーがいると思ったら、アシスタントコーチのヘルマン・ブルゴスだった。やがてブルゴスとディエゴ・シメオネ監督を中心にして、選手たちが輪を作る。トレーニングが終わる合図だ。

 ほどなく、ヤン・オブラクはメディアセンターに姿を現した。移籍金9000万ポンド(約131億円)とも言われる世界屈指のGKは、座る場所を決めかねている。「ここでいいのかな?」

 我々が彼を取材したのは、昨年11月のよく晴れた日だった。ちょうど17-18シーズンのラ・リーガ授賞式を終えたばかりで、彼は3年連続となるサモラ賞(リーガ最少失点率GK賞)を受け取り、バルセロナからマドリードへと戻ってきたばかりだった。

 その直前、アトレティコはチャンピオンズリーグのグループステージでドルトムントを2-0と破っていた。これはオブラクにとって、アトレティコに来て通算100回目のクリーンシート(無失点試合)だ。驚くべきは、その記録に要した試合数だった。出場178試合。マヌエル・ノイアーが同じ記録を達成するのに188試合、ジャンルイジ・ブッフォンが222試合かかったと言えば、これが驚異的な記録だと分かるだろう。

「それを聞いたときは本当にうれしかった。今のフットボールでは普通じゃない数字だよね」

 オブラクのインタビュー嫌いは有名な話だ。スポットライトを浴びるより、静かにフットボールに集中したいタイプなのだろう。しかし、だからこそ彼の言葉には、耳を傾けるだけの価値がある。

1試合平均の失点率「0.59」という数字をたたき出し、17-18シーズンのサモラ賞を受賞した[写真]=Getty Images

片道30キロを自転車で通った少年時代

「僕はシュコーフィア・ロカで生まれた。スロヴェニアで2番目に古い街だよ。そこに小さなアマチュアクラブがあって、父がGKとしてプレーしていた。僕が最初に憧れた選手は父なんだ」

 フットボールにまつわる最初の記憶を、オブラクは懐かしそうに振り返る。

「いつも練習を見に行っていた。ゴールマウスの後ろに立って、父が跳ぶのと同じ方向にジャンプするんだ(笑)。3歳か4歳の頃だね。大人たちはみんなおもしろがって見ていた」

 やがて本格的にフットボールを始めたきっかけも、やはり父親の試合だったという。

「冬の間、父は室内でやる少人数のフットボールをプレーしていてね。ハーフタイムになると、僕と姉は勝手にコートに入って遊んでいた。僕が8歳か9歳のときかな。姉は3歳年上で、フットボールが上手だった(姉のテヤは現在、バスケットボールのスロヴェニア代表)。彼女が蹴って、僕が止める。そこにオリンピア・リュブリャナの関係者がいて、練習に来ないかと誘われた。うれしかったよ。国内最大のクラブだからね」

 しかし、それから数年間は大変な日々が続いた。練習が厳しかったから、ではない。練習に通うこと自体に苦労したのだ。

「オリンピアの練習場は自宅から30キロも離れていて、毎日、両親が送り迎えをしてくれた。僕のために勤務時間まで変えてくれた。それでも無理なときは、自転車をこいで通ったよ」

 思わず聞き直す。片道30キロを自転車で通ったって?

「そう(笑)。アカデミーに着く頃にはもうヘトヘトだよ。頑張れば1時間で着くんだけど、理想的なウォーミングアップではなかったね(笑)。でも、とにかくプロになりたかったし、世界一のGKになりたかった。小さい頃から、それだけをずっと考えてきた」

 やがて事態は予想外の展開を迎える。オリンピアは2005年に破産し、5部リーグからの再出発を余儀なくされた。それから4年間をかけて再び1部リーグに戻ったとき、16歳のオブラクは正GKの座を手にした。当時の正GKだった43歳のロベルト・ヴォルクは「彼のほうが上だ」と主張して、自分のポジションを譲った。

 ヴォルクの判断は正しかった。16歳のGKは若さに似合わない明晰な頭脳を持っていた。それはオブラクがキャリアを築くうえで、最大の武器になった。

「確かに、同世代の友達とは違うことを考えていた。成熟していた、と言えるかもしれない」。今年1月に26歳になった彼は、実際よりも年を取っている気がする、と笑う。「頭の中は40歳くらいかな(笑)。でも、GKに成熟と冷静さは大切な要素だ」

 オリンピアで1シーズンを戦うと、17歳になったオブラクは難しい決断を迫られた。スロヴェニアはフットボールの国ではない(強いて言えばスキーの国だ)。世界最高のGKを目指すなら、国外へ飛び出すしかなかった。

 2010年、彼はベンフィカに移籍する。10代の少年にとって、初めての外国暮らしが簡単なものでなかったことは容易に想像がつく。彼はしょっちゅう家族に電話して気持ちを紛らせたという。

「厳しい時期だった。まだ17歳だったけど、スロヴェニアでは試合に出て、いい結果を残したばかりだった。環境を変えるのは簡単な決断じゃなかったよ。でも、夢をかなえるためには挑戦しなければならない」

 キャリアという意味では正しい選択をしたと思う、と彼は言う。「つらかったけど、移籍はフットボールのためで、生活を楽しむためじゃないからね」

 スロヴェニアに帰ろうとは思わなかったのかと聞くと、彼は笑顔を見せた。

「考えもしなかった。スロヴェニアにいた頃、国に戻ってくる選手をたくさん見たよ。せっかくのチャンスなのに、なんで戻ってきたんだろうと思っていた。でも、実際に経験してみると、簡単なことじゃなかった。それでも、僕は一度も帰りたいとは思わなかったな」

 忍耐は無駄にならなかった。ポルトガルでの1年目はベイラ・マルとオリャネンセに、2年目にはウニオン・レイリアにレンタル移籍を経験する。ウニオン・レイリアで出場機会をつかむと、3年目はリオ・アヴェ(またレンタルだ)で実力を認められた。

 そして13-14シーズン、オブラクはついにベンフィカのゴールマウスに立つ。すると、それから7カ月の間にベンフィカは国内3冠を達成し、ヨーロッパリーグでも決勝に駒を進めたのだった。

「あのシーズンはすごかった」と、彼は当時を思い出して言う。「僕はまだ若かったし、前半戦は出場機会がなかった。でも12月にポジションをつかんで、シーズン後半はチームに貢献することができた」

 貢献できたどころの話ではない。このシーズン、彼はリーグ戦で先発した15試合のうち、13試合でクリーンシートを達成した。シーズン終了後、アトレティコからオファーが届いたのも当然だろう。ベンフィカが受け取った移籍金1600万ユーロ(約20億円)は、GKに対する移籍金としてはラ・リーガの史上最高額だった。

ベンフィカ時代はレンタル移籍を繰り返し成長。13-14シーズンはリーグ途中から正GKを任され国内三冠に貢献。リーグ最優秀GKに選出された[写真]=Getty Images

「GKの物語は美しくない」

 ベンフィカのときと同じように、アトレティコでも最初は苦しんだ。1年目のシーズンには不可解な事件もあった。ベンフィカのルイス・フェリペ・ヴィエイラ会長が「アトレティコがオブラクを返したいと言ってきた」とコメントしたのだ。アトレティコはそれを否定しているが……。

「そんな話は全く信じていない」とオブラクは言う。しかし移籍1年目の14-15シーズン、彼は9月にCLグループステージ第1節、オリンピアコス戦でデビューを果たしてから、6カ月間もベンチに追いやられた。コパ・デル・レイ以外の出番がなかったのだ。放出したティボー・クルトワの後継者だったはずが、とんだ期待外れじゃないか。そんな評価が下されようとしていた。

「みんなに心配されたよ。大丈夫かって。でも、あのシーズンは僕がケガをしてしまって、その間に絶好調だったミゲル・アンヘル・モジャが起用されていた。僕としてはチャンスが来るのを待つしかない。ベンチで試合を見たくはなかったけど、いつか出番がきたら、僕の悪口を言った連中を黙らせてやると思っていた」

 チャンスはやってきた。CL決勝トーナメント1回戦の2ndレグ、レヴァークーゼンをホームに迎えた大一番だ。

「あの試合が僕の人生を変えた」と彼は言う。23分にモジャが負傷退場したとき、アトレティコは合計スコアで0-1とリードを許していた。しかしオブラクがピッチに入った直後、27分にマリオ・スアレスのゴールが決まり、合計スコアは1-1。オブラクはゴールを守り抜き、勝負はPK戦に委ねられた。彼はハカン・チャルハノールが放ったシュートを止め、アトレティコはCLベスト8進出を決めた。そしてその日から、オブラクはシメオネのファーストチョイスになった。

「すべてが変わった瞬間だった」

PK戦までもつれ込んだCLのレヴァークーゼン戦。途中出場のオブラクは見事なPKストップを披露し、ベスト8進出の立役者を演じた[写真]=Getty Images


 彼は4年前の熱戦をそう振り返る。「モジャのことはもちろん気の毒に思った。でも、GKがチャンスを得る状況はあれしかない。僕はPKを阻止して、チームは勝ち上がった。僕のキャリアは変わった。でも、元をたどれば味方の負傷に行きつくんだ。GKの物語は美しくないよね」

 翌シーズンのCLではミラノで行われた決勝まで進んだ。しかし、アトレティコは13-14シーズンに続いて、同じ街の宿敵レアル・マドリードとの決戦に敗れた。しかも、自信を持っていたPK戦で敗れたことは、オブラクに敗戦以上の苦しみを与えた。

「あれは人生で最も悲しい日だ」と彼は言う。「またPKで勝負がついた。ラウンド16のPSV戦もPK戦で勝ち、バイエルンとの準決勝でもPKを1本を止めた。それが、レアル戦は5人全員に決められてしまった」

 クリスティアーノ・ロナウドが最後のPKを決めた瞬間は、あの大会のハイライトだ。テレビであのシーンが流れたら、スイッチを切る?

「いや、大丈夫だよ。なんで右に跳ばなかったんだろう、と自分を責めても、結果が変わるわけじゃないからね。後悔しても仕方ない。次はもっといい判断ができるように努力するだけだ。難しいことだけど」

 CLで優勝できなかったとはいえ、アトレティコは昨シーズンのヨーロッパリーグを制した。決勝戦はマルセイユに3-0。またしてもクリーンシートだ。

「タイトルを取ることが一番重要だ。個人賞はうれしいけど、チームのトロフィーにはかなわない」

 実のところ、彼はさほどクリーンシートにこだわってはいない。チームが勝つために、自分の仕事を完璧に遂行したいと考えているだけだ。それはおそらく、アトレティコのフットボールそのものでもある。

17-18シーズンはEL優勝を経験。決勝でマルセイユを完封し、自身初の国際タイトルを手繰り寄せた[写真]=Getty Images

「クラブに残ると決めたのは僕だ」

 シメオネ監督は、世界で最もこじ開けるのが難しい守備組織を築き上げた。昨シーズンのアトレティコはラ・リーガ38試合を戦って22失点。その前シーズンは27失点で、その前は18失点だ。3シーズン連続でリーグ最少失点を記録したチームに対して、オブラクの貢献度の大きさを疑う余地はない。

「力を合わせて守る。そうすれば結果は出る」と彼は説明する。「個人でやろうとしてはいけない。チームとしてやるべきことをやるんだ。課題があれば必ず練習で修正する。シメオネは『まあいい。そのうち良くなるはずだ』なんて考え方はしない」

 その結果が、常軌を逸したペースで量産されるクリーンシートということなのだろう。今年3月末時点で、オブラクはアトレティコで通算200試合に出場している。そのうち、実に113試合がクリーンシートだ。

「先制されると、試合はグッと難しくなる。相手が守りに入る場合もあるからね。だから失点しない、最低でも先制点を与えないことが大切なんだ。僕はどんな試合でも、そのために100パーセント集中している」

 クリーンシートの数以外にも、オブラクには驚くべき事実がある。2012年にスロヴェニア代表に選ばれて以降、わずか20キャップしか持っていないのだ。代表の正GKとなったのは2016年、インテルのサミル・ハンダノヴィッチが代表引退を表明してからだった。昨年スタートしたUEFAネーションズリーグでは、腕の不調のため招集を見送られた。今年3月、ユーロ2020の予選に合わせて、ようやくオブラクは代表に戻ってきた。

 スロヴェニアは2010年のワールドカップに出場して以降、主要な国際大会に出場できていない。ユーロやW杯でプレーすることは、彼の夢の一つだ。

「ユーロの予選突破は簡単なことじゃない。それは分かっているけど、どんな国だってチャンスはあるからね。アイスランドがいい例だ」

 様子をうかがいに来たアトレティコのスタッフが時計を指す。インタビュー時間は終わりに近づいている。最後にもう一つ、重要な話を聞かなければならない。

 昨年の夏、チェルシーはオブラクの獲得に近づいていたと言われている。彼らは結局、7160万ポンド(約104億円)を費やしてアスレチック・ビルバオからケパ・アリサバラガを獲得したが、その前にオブラクとの契約解除金9000万ポンドを準備していたという。つまり、オブラクはアトレティコに加入したときと同じように、クルトワの後任を務める可能性があった。

「それについてはあまり詳しく言えない」

 移籍が実現しなかった理由について、彼は口にしなかった。「昨年の夏、アトレティコに残りたいと言ったのは本心だ。僕自身は他のクラブと話をしていない。ただ、代理人とアトレティコの首脳陣は話をした。クラブに残ると決めたのは僕だ。正しい選択だったと思う」

 彼の言葉には続きがある。「でも、将来どうなるかは分からない。フットボールの世界では、一夜にして状況が変わることだってある。プレミアリーグもおもしろそうだし、いつかプレーしてみたい気持ちもあるよ。でも、いつになるかは分からない。来年かもしれないし、5年後か10年後かもしれない」

A・マドリードでの圧倒的な活躍により、移籍市場でも熱視線を注がれている[写真]=Getty Images


 今のところ、オブラクはアトレティコでの日々を楽しんでいる。指揮官であるシメオネが彼を信頼していることも大きいだろう。シメオネは13-14シーズンにラ・リーガを制したときのGKクルトワよりも、今のオブラクのほうを選ぶとコメントしている。

「そんな言葉は誰に言われてもうれしい。監督がそう考えてくれるなんて幸せだよ。ただ、世の中にはいろんな意見があるからね。僕が一番だと言ってくれる人もいれば、他の選手のほうが上だと思う人もいる。僕のことを気に入ってくれる人を増やしたいね」

 では彼自身はどう思っているのだろう。世界最高のGKはヤン・オブラクだろうか?

「それは答えられないな」と彼は笑った。「評価は他人に任せる。僕はただ、最高の選手になるために努力している。それだけだよ」

 その姿勢は、練習場まで往復60キロを自転車で通っていた少年時代と変わらない。いや、父親の後ろでジャンプしていた頃のままなのかもしれない。3歳の彼はきっと、ゴールに向かってくる想像上のシュートを、1本残らずストップしていたに違いない。

※この記事はサッカーキング No.002(2019年5月号)に掲載された記事を再編集したものです。

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