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ウィリアム・ギャラス ロンドンの歩き方【雑誌SKアーカイブ】

2020.03.24

[サッカーキング No.006(2019年9月号)掲載]

チェルシー、アーセナル、トッテナムを渡り歩き、2014年に現役を引退したウィリアム・ギャラスは2年前、英誌『FourFourTwo』で自身のキャリアについて語っている。彼の不思議なキャリア──チェルシー、アーセナル、トッテナムで過ごした12年間──の物語は、すなわちロンドンを愛した一人のフランス人の物語でもある。

インタビュー・文=アーサー・ルナール
翻訳=加藤富美
写真=リチャード・キャノン、ゲッティ イメージズ

 イングランドの首都にこれほどの愛着を示す外国籍選手はそういない。

 そこで我々は、ウィリアム・ギャラスにふさわしい取材プランを用意した。まずはロンドン名物タクシー「ブラック・キャブ」に乗り込み、打ち合わせをする。向かった撮影場所は、チェルシーの本拠地スタンフォード・ブリッジ。そして最後に、「ウナギのゼリー寄せ」をプレゼント……。

「何だこれ!?」。包みを開くと彼は目を見張った。「こんなの見たことねえ!」。この“ロンドンっ子”をもってしても、悪名高いロンドン名物は無理だったようだ。

 取材は今から2年前、ギャラスが現役を引退して3年が経った頃に行われたものだ。チェルシー、アーセナル、そしてトッテナムというロンドンのビッグクラブを渡り歩き、“禁断の移籍”を2度も経験した。元フランス代表DFは12年の歳月をかけ、プレミアリーグ通算321試合に出場した。

 キャリア最高のゴールがスパーズ戦だったこと、ライバルクラブへ移籍してもブーイングを食らわなかったこと、古巣との試合で初めてキャプテンマークを巻いたこと……。現役を引退して5年。ロンドンでプレーした日々は、今の彼の心に深く刻まれているに違いない。そしてウナギのゼリー寄せのことも……。

取材陣から贈られた「ウナギのゼリー寄せ」はいまいちだった様子……[写真]=リチャード・キャノン

チェルシーを去った理由はいくつかある

──まずはロンドンに来る前の話を聞かせてほしい。マルセイユ時代、99-00シーズンのチャンピオンズリーグでマンチェスター・ユナイテッドから初ゴールを決めた。ハーフウェー付近からドリブルして、まるでFWのようなゴールだった。
実は、クレールフォンテーヌ国立研究所(フランスの選手育成機関)にいた頃はFWだったんだ。2年経って、他の選手たちが様々なチームからスカウトされたけど、俺には声がかからなくてもう1年残ることになった。そのとき、監督に言われたよ。「ウィリアム、君はストライカーとしてはいま一つだし、ウィンガーやMFとしても平凡だ。今年はユースで最後のシーズンだから、君にはDFとしてプレーしてもらう」ってね。確かパリ・サンジェルマン戦の前にこの話を聞いた。それで右サイドバックで先発したら、これが当たってね。次のオセール戦でもうまくいった。監督に「とうとう天職を見つけたな」と言われたよ。そのシーズンの最後にカーンからオファーをもらって、入団から1年後にはトップチームに昇格した。その2年後の97-98シーズンにマルセイユに移籍したんだ。

──ユース時代、違うスポーツはしていなかったの? ラグビーフランス代表のマチュー・バスタローは君の従兄弟だ。ラグビーをしたことは?
俺がラグビーを? ラグビーで通用するような体じゃない(笑)。すぐにすねの骨を折って選手生命が終わっていただろう。身長はマチューと同じ183センチだけど、俺の体重は82キロでアイツは120キロもあるんだ。そうだな、俺がラグビーをするなら、ボールを持ったまま家まで走って逃げていくよ。すぐに捕まって地面に抑え込まれるだろうけど(笑)。

──2001年にチェルシーに移籍した。当時のセンターバックと言えばマルセル・デサイーとジョン・テリーだ。どちらとコンビを組むのが好きだった?
選ぶのは無理だね。2人ともワールドクラスのDFだった。1998年前後はマルセルが世界一のDFだったと思う。ジョンの全盛期は2006年頃かな。マルセルはジョンにいろいろなことを教えていた。俺がチェルシーに移籍したとき、マルセルに言われたよ。「ジョン・テリーという才能のある子がいる。将来はイングランド代表のキャプテンになるはずだ」とね。チェルシーで初めて全体練習に参加した日のことは今でもよく覚えている。俺は初めての海外挑戦だったから少しビビっていた。両足で難なくロングボールを蹴るジョンを見て、俺がここのトップチームでやっていくのは無理だと思った。彼は体も強かったから。でも努力を重ねて、4バックのいろいろなポジションでプレーするチャンスをもらった。マルセイユのときと同じようにね。

──2003年にロマン・アブラモヴィッチがオーナーになった。チェルシーはどう変化した?
より一層プロフェッショナルなチームになって、組織としてのレベルが格段に上がった。アブラモヴィッチは選手に投資しただけじゃない。コーチやドクター、フィジカルコーチといったスタッフにもお金をかけた。食事を作ってくれるシェフにもね。コブハムに新しい練習場を作ったのも彼だ。彼は最初から投資先をチェルシーと決めていたわけじゃなくて、他にもスパーズやリヴァプールを候補に挙げていたらしい。02-03シーズンの最終節で俺たちがリヴァプールを破るのを見てチェルシーに決めたと聞いた。4位を確保してCLの出場権を得た試合だ。もし逆の結果だったら彼はリヴァプールを買っていたかもしれないね。

──普段のアブラモヴィッチはどんな人?
情熱的なオーナーだと思う。試合に勝ったあとはドレッシングルームに来て選手と話をしていたよ。「調子はどうだ? タックルをくらっていたけど痛くないか? 次の試合にも出られそうか?」といった感じでね。俺たちにとってはかなり身近な存在だった。

──04-05シーズンのCL準決勝2ndレグでリヴァプールのルイス・ガルシアが決めた“ゴースト・ゴール”は、ゴールラインを越えていたと思う?
いや、越えていない。なんと言っても、俺がクリアしたからね! 今でもはっきりと覚えている。2005年のチェルシーはおそらくヨーロッパで最強のチームだったし、決勝に進んでいれば優勝できた。だからあの試合で負けて残念だよ。CL優勝は自分の夢でもあったんだ。

──04-05シーズンにプレミアリーグで優勝したとき、34試合で失点はわずかに15だった。これはすごい数字だ。
信じられない数字だよね。最終ラインは本当に強力だった。当時の監督ジョゼ・モウリーニョは守備を重視していた。ミーティングのたびに「私に失点する姿を見せないでくれ」と言っていたよ。これはみんなに知ってもらいたいことなんだけど、俺たち選手はピッチ上で一度も言い争いをしたことがなかった。ジョゼのおかげだ。誰かがおかしなプレーをすると、彼はすぐに注意した。言うとおりにできていないプレーヤーがいると、「こうしろと言ったはずなのに、なぜやらないんだ?」とすぐ指摘してくるんだ。だから俺たちは自分のことに集中できて、他人について気に病む必要がなかった。

──2006年3月のスパーズ戦ではアディショナルタイムに素晴らしい逆転弾を決めた。キャリア最高のゴールでは?
確かに。あれ以上のシュートは無理だ(笑)。息子も気に入っていて、「どうやって蹴ったか覚えてる?」って今でも映像を見せてくるから「もちろんだ」と答えているよ。今だから言えるけど、実は前の晩は2、3時間しか寝ていなかったんだ。午後の早い時間帯の試合だとすっかり忘れていて、ベッドに入ったのは明け方だった。クラブからの電話で起こされたときは終わったと思ったよ。精神的ダメージが大きすぎて、ピッチに立っても全然頭が働かなかった(笑)。でもその“無我の境地”が良かったのかもしれないね!

チェルシーがプレミアリーグ2連覇を果たした05-06シーズン。ギャラスは34試合に出場し優勝に大きく貢献した[写真]=Getty Images

──チェルシーを去るときはずいぶん強引だったと言われていた。実際のところは?
チェルシーを去った理由はいくつかある。まず、フロントとの間で契約延長の話がまとまらなかった。クラブで一番高額な年俸を要求したわけでもないし、俺としては当然の要求だと思ったんだけどね。契約は1年残っていて、フロントにはドイツ・ワールドカップが終わってから話をしようと伝えてあった。

──フランス代表が決勝に進出した大会だね。君は全試合に出場した。
大会が終わって故郷のグアドループに帰ったら、空港には人がわんさかいて、自宅に戻っても写真とかサインとか、毎日大勢の人が詰めかけてきて休暇どころじゃなかった。俺はすっかり疲れてしまって、ジョゼにあと2、3日休みをもらえるかと聞いた。でもクラブはプレシーズンのアメリカ遠征に俺を参加させたがった。「うちのチームにはW杯決勝に出た選手がいる」とアピールしたかったんだ。

──フロントに不信感を持ったわけか。
残念だったよ。俺たちには「トロフィーを獲得する」という共通の目標があったのにね。そしてさらに悪いことに、俺が背負っていた13番をミヒャエル・バラックに与えるという決定がくだされた。ショックだったよ。もうこのクラブではプレーできないと思った。自分にとっては思い入れのある背番号なんだ。入団したとき、まだDFのどのポジションをやるか決まっていなくて、チェルシーでDFの選手があまりつけたことのない番号だと聞いて13番に決めた。アンラッキーな数字だということは頭になかったね。自分に合っていると思ったし、チェルシーにいる間ずっと大切にしてきた番号だ。ケンカ別れみたいになったのは本当に残念だった。DFとして大きく成長できたのはジョゼのおかげだからね。

──チェルシーを去るときに“オウンゴールしてやる”と脅かしたという話は本当?
そんなこと言えるわけないだろう? 今まで聞いた噂の中で一番バカげている。当時はすべてのサポーターが残留を望んでくれていたから、フロントは俺を放出する理由を探していたんじゃないかな。俺はフットボールをするとき、魂を込めてプレーする。常に全力を尽くしているのにそんなことを言われるのは悲しい。

いいフットボールをすることがすべてではない

──2006年にアーセナルに移籍した。同じロンドンのクラブだけど、家は引っ越した?
いや、アーセナルで初めてのシーズンは、チェルシー時代と変わらずウィンブルドンの近くに住んでいた。でも練習場までは本当に時間がかかったよ。片道45分から1時間くらいかな? その年に長男が生まれて、寝不足の朝もあった。長時間の運転や疲労が重なって、10月にそけい部を痛めて3カ月近く離脱した。それで練習場から30分弱のハムステッド付近に引っ越したんだ。

──アーセナルでデニス・ベルカンプの10番を受け継いだときはかなりの話題になったね。
本当はアーセナルでも13番が良かったんだけど、すでにアレクサンドル・フレブがつけていた。アシュリー・コールがチェルシーへ移籍したから3番が空いていたけど、以前10番をつけていたこともあったし、娘が11月10日生まれでいい機会だから10番にした。アーセナルにとっても俺がつけて良かったんじゃないかな。若い子がつけるとプレッシャーを背負ってしまう数字だからね。俺にはそれがなかった。

──当時、アーセン・ヴェンゲルとモウリーニョが“舌戦”を繰り広げていた。君はどちらに軍配を上げる?
分からない。そもそも二人の間に何があったのかも知らない。過去に何かがあったとしても、それは忘れて次に進むことが大切だと思う。

──アーセナル時代で今でも心に残る出来事は?
そうだなあ……移籍後初めて出場したミドルズブラ戦かな。俺は観客からブーイングを食らうとばかり思っていた。チェルシーから移籍してきたんだからそれが自然だ。でもウォームアップでピッチに出たときに拍手をもらった。すごくうれしかった。全く予想していなかったからね。

──アーセナルファンはギャラスと聞けば2008年2月のバーミンガム戦を思い出すだろうね。君が感情的になった(試合中にガエル・クリシーのミスを責め、広告看板を蹴り上げた)のは、エドゥアルドがタックルを受けて重傷を負ったことが原因?
涙が出るほど怒ったのはエドゥアルドのケガが原因じゃなくて、試合終了間際に集中力を切らして勝ち点2を落としたからだ。我を失ってしまった。まあ、それも勉強だ。ただ、熱意を見せるのが必要な場面もあると思う。味方のミスにいつも「大丈夫だ、気にするな」と言っていたら何の進歩もないからね。あのシーズンは結局4位に終わったけど、それはチームに力がなかったからだ。

アーセナルには06年から4シーズン在籍。キャプテンも務めた[写真]=Getty Images

──その後、ヴェンゲル監督にキャプテンマークを剥奪されたことについては?
最初はフェアじゃないと思ったけど、今となってはベストの判断だった。俺がキャプテンマークをつけることを望まない選手も何人かいたし、監督は俺にかかるプレッシャーが大きすぎると考えたんじゃないかな。確かに俺はキャプテンの責任を重く考えすぎていた。ドレッシングルームで選手が言い争ったことを話したのが決定的だったね。だけど、その記事の中ではあまりにもひどいキャプテンとして書かれていたよ。

──アーセナル時代はタイトルに縁がなかった。当時のチェルシーにあってアーセナルにはなかったものは何だと思う?
人格者であり、経験も豊富な選手。俺がチェルシーにいた頃のチームの平均年齢は移籍当時のアーセナルより高かった。これは大きな要素だと思う。今でも状況は同じかもしれない。いいフットボールをすることがすべてではない。戦う準備ができているかどうかが重要だ。

──2010年にアーセナルから宿敵のスパーズに移った。批判されるのが怖くなかった?
不安はなかった。PSGからも声をかけてもらったんだけど、家族のためにもイングランドを離れたくなかった。スパーズで1年が過ぎた頃には、ユヴェントスに移籍するチャンスもあったよ。でも家族のためにロンドンに残った。スパーズとは最初1年契約だったんだけど、そのあと2年契約を提示してくれたんだ。

──10-11シーズン、君はアウェーでのノース・ロンドン・ダービーでキャプテンを務めた。古巣相手にキャプテンマークをつけて戦うのは不思議な気分だったのでは?
自分にとってもアーセナルのファンにとっても、微妙な状況だというのは試合前から感じていた。アーセナルでも1年半はキャプテンマークを巻いていたんだから。エミレーツ・スタジアムに向けて出発する前、ホワイト・ハート・レーンに集まって朝食を食べたときのことを覚えている。クラブハウスに着いて新聞を見たら、アーセナルの選手は俺と握手をしないだろうと書いてあった。そのあと、ドレッシングルームで支度しているとハリー・レドナップ監督が心配して来てくれた。だけど俺が「ノープロブレムだ」と答えたら、彼は「じゃあもっと派手なことをしよう」と言い出したんだ。「今日は君がキャプテンだ」ってね! 俺がキャプテンマークを巻いてピッチに現れたときはみんなが驚いただろうね。試合もうまくいって3-2でスパーズが勝利した。自分のパフォーマンスも良かったと思う。

32歳のときにトッテナムへと移籍。守備の要として3シーズン活躍した[写真]=Getty Images

──レドナップ監督のときと比べると、その後のアンドレ・ビラス・ボアス監督時代はあまりハッピーじゃなかったように見えた。思い過ごしだろうか?
最初は全く問題なかったんだけどね。アンドレのことは彼がチェルシーにいた頃から知っていた。当時はジョゼのもとでスカウトを務めていたよ。彼がスパーズの監督に就任した12-13シーズン、俺はクリスマス前にケガをしてしまって、フランスで治療を受けることになった。そのあとロンドンに戻ると、なんだか様子が変わっていた。

──ケガから復帰したのは2月3日のウェスト・ブロムウィッチ戦だった。
彼は1月末にFAカップのリーズ戦で復帰させようとしていたから、試合の準備をして、念のためメンバー表を見た。だけどそこに自分の名前はなかった。チームバスに乗る前で良かったよ。恥をかくところだった。気が変わったならそう言ってくれればいいのに、彼は何も言ってくれなかった。ミーティングでは俺の力が必要だと言ってくれてたんだけどね。それからは、ほとんどヨーロッパリーグでしか使われなくなった。まあ、俺の年齢を考えたのかもしれない。そう説明されれば納得もしただろうけど、一言もなかった。本当に落ち込んだよ。俺は選手に対して腹を割って話してくれる監督が好きだ。ビラス・ボアスがそうじゃなかったとは言わないけど、あのとき率直に言ってくれなかったのは確かだから。

ビッグクラブでプレーすると優勝を意識できる

──チェルシー、アーセナル、スパーズの3クラブに所属した選手はめずらしい。一番好きなクラブはどれ?
どこも好きだけど、スペシャルという意味ではチェルシーかな。国外でプレーした初めてのクラブだし、いくつかのトロフィーも手にして素晴らしい時間を過ごせた。代表に初めて選ばれたのもチェルシーにいたときだ。ビッグクラブでプレーすると優勝を意識できる。チェルシーでプレミアリーグを制覇したときは、イングランドの国王になった気分だったよ(笑)。毎年味わいたい感覚だった。

──そんなにロンドンを気に入った理由は?
まさに国際都市だからね。いろいろな人に出会えて、いろいろな文化に触れられる。誰に話しかけたっていいし、道に迷ったら丁寧に教えてくれる。そういうところが好きだった。でもロンドンも変わったよ。俺が最初に来た2001年にはそんなに道路も混んでいなくて、車はのんびり走っていたのに、今ではみんなカリカリしながら運転しているよ。

──ところで、ロンドンとフランスを行き来するのに、ユーロスターを使っているよね? 2007年に終着駅がウォータールーからセント・パンクラスに変えられたときは頭にこなかった?
いや、それが俺にとっては最高のタイミングだったよ。ハムステッドに引っ越した直後だったから、セント・パンクラスのほうが便利だったんだ。チェルシーにいた頃に住んでいたウィンブルドンからだとウォータールーのほうが近かった。それにウォータールーは古い駅だから、大きくて設備もいいセント・パンクラスのほうがいいんじゃないかな。

──ロンドンのメジャークラブをすべて制覇する考えはなかった? ウェストハムに移籍すれば話題になったはずだ(笑)。
代理人はウェストハムと接触したみたいだけどね(笑)。俺はよく覚えていない。今思い出せるのは、2013年の夏にクリスタル・パレスから話があったことかな。当時の監督イアン・ホロウェイとは交渉のために練習場で会った。その話がまとまらなかったから、マルセイユに戻ろうとも考えたけどオファーがなかった。年俸は半分でいいよって言ったのに(笑)。当時モナコで監督を務めていたクラウディオ・ラニエリとも話をしたね。彼は俺を獲得したいと言ってくれたけど、フロントに却下されたらしい。そんな事情で、オーストラリアのパース・グローリーと契約を結んだんだ。

──パース・グローリーで過ごした13-14シーズンの思い出は? ウェスタン・シドニーとの試合で、ボールを蹴ろうとしたのに右足が当たらなくて軸足で蹴ってしまったシーンかな?(笑)
あれはキャリア最大の失敗だったね(笑)。恥ずかしかったよ。これからは息子にしょっちゅう聞かれるかもしれない。「あれは何?」って。笑ってごまかすしかない。あんなことは後にも先にも一度きりだ。それ以外は、オーストラリアではいい思い出ばかりだよ! 文化も素晴らしいし、リラックスできる雰囲気が大好きだった。

──テレビ解説者の仕事にも慣れてきたようだけど、このままずっと解説の仕事を続けるつもり? それともいずれは指導者になりたい?
今は解説の仕事も楽しんでいるよ。いつも建設的な批評をするよう心掛けている。選手が違ったやり方でプレーするヒントを与えられるようにね。もともと人前で話すのはちょっと苦手なんだけど(笑)。監督業にはあまり興味がないんだけど、いつかディフェンスコーチはやりたいと思っている。若い選手がトップチームに昇格するとき、守備に改善点を抱えていることが多いんだ。でも監督はそれを見てあげる時間がない。解説の仕事で試合を見ていると、DFはどうあるべきかを分かっていない選手が多いんだ。若いときにちゃんと教えてもらえなかったんだろう。だからそれを教える立場になれたらいいね。

※この記事はサッカーキング No.006(2019年9月号)に掲載された記事を再編集したものです。

By サッカーキング編集部

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