2018.03.13

【Jリーグラボ】“レジェンド”奥寺氏、キャリアのスタートは卓球?「すごい選手になったかも」

サッカー総合情報サイト

 日本人初のプロサッカー選手として本場ドイツで活躍し、現在は横浜FCの会長を務める奥寺康彦氏が登場し、自身のサッカーキャリアを振り返った。

 2017年に「ブンデスリーガレジェンド」に選出されるなど、日本人プロ選手、そして海外組の先駆者的存在でもある奥寺氏だが、意外なことに少年時代はサッカーとは縁遠い生活を送っていた。生まれはサッカーどころとは言えない秋田鹿角市で、小学4年の2学期に両親の仕事の都合で神奈川県横浜市に転居したという。

「小学生時代はサッカー自体あまりやっていなかったから、いろいろな遊びをした」という奥寺氏。横浜市立舞岡中への進学後、最初に入ったのは何と卓球部だったという。

「横浜での両親の仕事が、ある大手の電機メーカーの寮の管理人だったの。けっこう大きな寮で、娯楽スペースに卓球の設備があったから、大人と一緒にやっていた。だから自信があったしうまかった。それなら入るのは卓球部でしょ(笑)。でも入部したら、台が少なかったこともあって、素振りばっかり(笑)。うまいのに素振りばかりで実力を見てくれない。つまらないなって思っていた時に、野球部に入っていた同級生が来て『オク、一緒にサッカー部入ろう』って。それで卓球部のキャプテンに『辞めてもいいですか?』って聞いたら『いいよ~』って。分かってくれないんだもん、俺のうまさを。もし卓球を続けていたら、すごい選手になっていたかもしれないのに(笑)」

 中学1年の5月にサッカー部に入り、初めてサッカーに触れた奥寺氏だったが、すぐに才能を発揮したわけではなかったようだ。

「最初の頃は先生が1年生だけ集めて、サイドキックとかをちょっと教えて、あとはボール拾いと走るトレーニングばかり。夏合宿を学校でやったんだけど、これも走りやうさぎ跳びばかりで嫌だった。1年生は15人ぐらい入ったけど、合宿が終わったらみんな辞めちゃった」

 それでも、2年生になると徐々に選手としての存在価値が高まっていった。

「2年生になった頃から、潜在能力が発揮されたのかどうなのか、足が速くなった。だから『FWやれ』って。当時はスペースにボールを蹴って、そこ目がけてダーっと走るのが俺の役目だった」

 転機が訪れたのは中学3年生の時だった。1956年のメルボルン・オリンピックに出場した経験を持つ三村格一氏が外部コーチに就任し、本格的にサッカーを教わることになったのだ。

「三村さんから『今年の合宿は頭を使うぞ』って言われて、初めて戦術を教わった。3対2をずっとやるわけ。パスをつなぎながら、どうやって3人で2人を抜いていくかというのを初めて教わった」

 中学卒業後は相模工業大学附属高(現・湘南工科大学附属高)に進学し、全国高等学校サッカー選手権大会にも出場。卒業後に古河電工サッカー部に入部することになるのだが、この道を切り開いたのが中学時代の恩師、三村氏だったという。

「中学3年の時に、三村さんが『奥寺は古河電工だな』ってちらっと言っていたんだよね。で、高校3年になって、進路はどうするんだ、となった時に、三村さんの言葉がずっと頭の中にあったから、三村さんを訪ねて『古河電工を紹介してくれるって言いましたよね?』って言った。そうしたら『ああ、そうだそうだ』って、古河電工の練習に参加する手はずを整えてくれた」

 これが縁で1970年に古河電工に入社し、サッカー部でプレーすることになった。まだ日本にプロサッカーというものが存在しない時代だったが、奥寺氏は古河電工時代をこのように語った。

「サッカーで飯を食う、という感じではなかったですけど、日本リーグに所属するチームでしたし、高いレベルでサッカーができる環境ではありました。サッカーをする人間にとっては夢のような場所だったし、いい会社でしたよ」

 北海道コンサドーレ札幌の野々村芳和社長がMCを務める『Jリーグラボ』は、毎月第2日曜日の21時から放送される。日本のサッカー水準向上を目的に、毎回ゲストを招いて様々な角度から日本サッカーを分析していく。次回は4月8日(日)21時から放送される予定となっている。

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