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【再録】中田英寿、衝撃的なセリエAデビューでペルージャのアイドルになる

2018.09.13

CALCIO2002特別編集『NAKATA Renaissance』(2009年6月掲載)

三浦知良に続き、日本人としては2人目となるセリエAへの挑戦を決断した 21歳の中田英寿は、イタリアの典型的なプロヴィンチャのクラブである ペルージャで、センセーショナルなデビューを飾り、一躍、イタリアのみならず、欧州のサッカーシーンに名を轟かせた。

 1998年6月、中田英寿は日本代表の一員としてワールドカップ・フランス大会に出場した。しかし、屈辱の3戦全敗で戦いを終えるとメディアの関心は、中田の移籍問題へシフトする。

 7月7日、W杯準決勝の大一番を前に、一部スポーツ紙が中田のイタリア・ペルージャ移籍を1面で大々的に報じた。すると移籍報道はさらに過熱。その後、様々な憶測を呼んだが、7月24日、中田は晴れてペルージャと正式契約を結んだ。“日出ずる国のスーパースター”中田を追い、大挙して押し寄せた日本の報道陣やファンに対して、イタリアのマスメディアは好奇の視線を送った。その結果、セリエAデビュー前に中田は、シニカルな形で取り上げられ、挙げ句には「イタリアでは通用しない」と断言するメディアも現れた。そういった批判的な論評を中田はたった1試合で吹き飛ばすことになる。

 9月13日、セリエA復帰を果たしたペルージャの開幕戦は、前年度の王者であるユヴェントスをホーム、レナート・クーリに迎えて行われた。戦前の予想どおり、ゲームを支配したのはユヴェントスだった。前半だけで3得点を奪われると、スタジアムには明らかに落胆したムードが漂った。実力の差がそのまま点差になって表れた。ところが後半開始直後、中田がその沈滞した空気を打ち破る。右サイドから放った強烈なシュートは、名手アンジェロ・ペルッツィのニアサイドをこじ開けた。さらに7分後には、クロスのこぼれ球に倒れ込むようにしてボレーで叩き込み、1点差に詰め寄る。スタジアムは一気に活気づき、逆にユヴェントスは焦りからミスを連発。ペルージャが攻撃を仕掛けるとスタンドは騒然となった。しかし、ユヴェントスが決定的な4点目を挙げると、再び静けさがスタジアムを支配する。ところがである。試合終了間際にペルージャがPKを獲得すると期せずして、「ナカータ!」の大合唱が沸き起こった。PKはベテランMFに譲ったが、わずか1試合で中田はペルージャのアイドルの座を射止めたのである。翌朝のスポーツ紙は大きな見出しで中田の活躍を伝え、『ガッセッタ・デッロ・スポルト』紙も、『コリエレ・デッロ・スポルト』紙も8.0という高い評価を与えている。

 開幕戦以降、シーズンを通して、中田はトップ下の位置で攻撃の全権を掌握し続けた。セリエA残留を懸けた最終節。ペルージャは優勝を狙うミランをホームに迎えた。ともに負けられない大一番は、ミランが先制したものの、ペルージャもミラン・ラパイッチがエリア内で倒され、PKを獲得。これを中田が落ち着いて決め、前半のうちに同点に追い付いた。ハーフタイムには、他会場の試合経過を知り、少しでも有利にゲームを進めたい一部サポーターによって、発煙筒や爆竹が投げ込まれ、後半の開始時間が遅れるハプニングもあった。しかし、残留争いの当該チームであるサレルニターナが引き分けに終わったため、1-2で試合に敗れたものの、セリエA残留を勝ち取り、中田のイタリアでの1年目は大団円のうちに幕を閉じた。

 中田は、イタリアのスポーツ週刊誌主催のグエリン・ドーロで、サプライズ賞を受賞。さらには、バロン・ドールの受賞者候補50名にもノミネートされるなど、イタリアだけでなく、欧州からも注目される存在へと大きく成長した。

 2シーズン目、ペルージャの指揮を執ったのは、後のサッカー人生に大きな影響を与えてくれることになるカルロ・マッツォーネ。老将はピッチ上での限りない自由を中田に与え、それに中田も応え、2年目も上々のスタートを切った。

 ところが、冬の移籍市場では突如、中田は主役の一人に躍り出たのだった。

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